貞観という時代(859-876)と現代

「いつの時代にも災害からの復興は容易ではなかった」が、「どれほどの激甚な災害が起ころうとも、人々は懸命の努力をもって復興を果たしてきた」と、古代から現代に至る日本の災害と復興(⇒『災害復興の日本史』(歴史文化ライブラリー361、2013.2.1刊))を総覧するなかで、いくつもの災害が短期間に集中した貞観(859-876)という時代について少し書いてみます。時は「日本の都」の形がようやくできてきた平安初期。

 

863年、都に疫病。864年、富士山大爆発。866年、飢饉。869年、陸奥国大地震・津波。(このあと、仁和の時代の887年、南海大地震。)

近代医学もパワーシャベルもインターネットも無い当時の人々がいかに「懸命の努力をもって復興を果たしてきたか」を示すものとして、863年の疫病の際に神泉苑ではじまったとされる御霊会(ごりょうえ)に注目します。当時の神泉苑は大内裏のすぐ南の枢要な位置を大きく占めていましたが、現在では縮小され、二条城の堀を隔てた南側に隣接した敷地に小さくおさまつています。ずっと南に下ると東寺があります。平安京に遷都した際の土地利用配置(都市計画の考え方)の一端に触れる気がします。869年には当時の神泉苑の南端(現在、三条御供者があるところ)に66本の鉾を立てて祇園社(八坂神社)から神輿を出したとされます。66本というのは当時の律令制度下の国の数ということから、国の災難をなんとか鎮めようと祈る気持ちまでわかるような気がします。都が持てると当時考えた最大限のパワーを動員して事態に対処しようとしたのでしょう。

 

当時の日本の人口は600万人ほど。1億2000万人以上の現代日本は、当時の20倍以上の密度でギュウギュウ詰めで小さな日本列島に暮らしています。2011年の東日本大震災を契機に本ブログを始めたあとさまざまな災害がありました。気候変動に伴うグローバルな課題も加わってきたので、貞観のような時代とは直接比較はできませんが、このたびの新型コロナに対しても今のところなすすべといえば接触を避けることくらいで、「公卿以下庶民に至るまで門戸を閉ざして往還せず」(『平安京遷都』岩波新書1275、p113)との状態とあまり変わりません。それでも「どれほどの激甚な災害が起ころうとも、人々は懸命の努力をもって復興を果たしてきた」。その印のようなものが現代科学の成果とともに身の回りにあることに気づかされます。

 

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