【Urban Walk】(丘の辺の道) 愛宕山から御殿山まで [2023.12.11更新]

奈良の「山の辺の道」に魅せられて構成する「Urban Walk」第二弾。「丘の辺の道」。

「海の辺の道」とペアになり「Vision 2034 Tokyo」の中に組み込みます。

Urban Parks and Gardensの一部を取り込みながら、特徴ある地形の間を縫い、さまざまな風景に出会いながら歩きます。

まずは、「(仮)およその位置イメージ」を入れてみます。図の上(北)から下(南)に向かって歩きます。

(仮)およその位置イメージ 下図は国土地理院デジタル標高地形図(2006.3)

[以下、部分からはじめて次第につながりをつけていきます。]

天然の山としては「23区内最高峰」とされ(標高25.7m)、さまざまな歴史上の物語が詰まった愛宕山を「丘の辺の道」の起点とします(⇒「愛宕界隈」都市探訪86)。愛宕山の面する愛宕下通りを数ブロック北上したところには日比谷公園が控えています。(この日比谷公園東側の大規模再生事業が完成すると「Tokyo Sky Corridor」の長~い上空広場を介して浜離宮方面の「海の辺の道」につながります。)

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愛宕山を含む一体の「愛宕地区地区計画」のもとでさまざまなプロジェクトが進み、愛宕神社への新たな参道入口となる「G地区」は2031年が竣工予定年です。これにより愛宕山一帯が、人工物と自然と歴史文化が立体的に融合した、おそらくは他に類例のない「丘の辺」となりそうです。

ここで渡る「補助3号」も海側から丘に向かってゆるやかに登る独特の雰囲気のある道路ですが、そこを渡って芝公園方面に通じる「切通坂」を登り、そのまま行かずに正則高等学校の脇の路地を抜けると、「樹間の塔」(都市探訪89)が現われます。芝公園一帯や東京タワー周辺も今後10年ほどで大きく変わろうとしていますが、変われば変わるほど、変わらない「丘の辺」の風景が立ち現れるのではないかと期待します。

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ここで「丘の辺」に建つ東京タワー250mデッキに登ってみます。「海の辺」方向には遮るものは無く、普段は見ることのない風景に出会えます(「港湾都市」都市探訪177)。「丘の辺」からかつては海が見えていたはずですが、ビルが立ち並んだ今日、なかなかそういうわけにもいきません。

東京タワーが立っている高台は江戸期には増上寺の一部で紅葉山(もみじやま)と呼ばれ、その増上寺の敷地は丘の上から下までをカバーしていました。その紅葉山にあった能楽堂は明治時代に再建されたものの失われ、今では本堂のある境内で蝋燭能が毎年奉納されています。また、今では「芝公園」となったその敷地に、4世紀から5世紀のものとされる「芝丸山古墳」があることを知り驚きました(「武蔵国造」都市探訪185)。全長125メートル。これだけあれば、奈良の「山の辺の道」に沿って現れる巨大古墳の仲間というか、古代史をともにした当時の武蔵国(无邪志国)の有力者のものだったと考えてよいのではと思います(⇒3C~6C古代史)。今は不完全な形となりさまざまな歴史が墓の上や脇に積み重なり「古墳」というより「緑の小山」にしか見えませんが、環状3号線や首都高速都心環状線が通り抜けるこの場所に「古墳」然としたその姿が可視化されたなら、「東京」という場所の歴史観さえ塗り替えるようなインパクトがあるのではないかと想像します。

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さて、ここから先が問題。古川を渡る箇所が難所です。地上は環状3号/上に首都高が横切り分断が甚だしい。かつてこのあたりの古川には河岸があり「赤羽橋」がかかって、それら全体が独特の風景をつくっていたようですが(「芝赤羽橋之図」と検索してみてください)、現在、まったくその面影はありません。せっかく「丘の辺の道」を歩いてきたのに、、、

せめて暫定的にでもと考えたのが「タワー道(⇒都市探訪187)」です。東京タワーを見上げるこの場所(赤羽橋付近)はおそらくその姿が最も誇らしげに見える場所であり、桜田通りに沿って南下しても基本的にその風景がキープできる稀な場所です。「タワー道」では、2.8km離れた品川シーズンテラスにもその風景が取り込まれていることが確認できます。ということで、ここは首都高速等のバリア(マイナス面)はなるべく気にせず風景をポジティブに味わいながら「タワー道」を少々南下して「綱の手引き坂」下まで歩くことを想定します。(逆向きになるので自動車に注意!)
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(ここでいろいろ寄り道する)

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イタリア大使館脇の綱坂を下ると慶應義塾です。

福沢諭吉が、高所にあって湿気が少ないこの土地に目をつけキャンパスとした場所で、慶應義塾の応援歌「丘の上」の2番は、「窓を開けば海が見えるよ 朗らかに風は渡るよ渡るよ」とはじまります(⇒「丘の上。」都市探訪179)。たとえ今ではそうした景色が見えていなくても、「丘の辺」にはさまざまな形でこうした「土地の記憶」が受け継がれているものと思われます。

その高台から階段を降り正門を出て桜田通りを渡り、緑に覆われた安全寺坂を上ると潮見坂に出ます。その道標には「坂上から芝浦の海辺一体を見渡し、潮の干満を知ることができたため、この名がつけられた」とあります。

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地形図でみても最も海寄りの丘を南北に貫くこうした「丘の辺の道」の特徴から、この道は、かなり古くから使われていたようです。伊皿子貝塚(「貝塚保存」都市探訪180)は縄文後期の貝塚であるとされ、その辺りには弥生時代や古墳時代の墓跡、平安時代の建物跡がみつかっています。これらは1970年代末の都市開発の際の本格的調査の成果とされます。日本史上のストーリーの大きさでは奈良の「山の辺の道」とは比べようもありませんが、新たな開発に伴って過去の文脈が掘り出されたりその場所に新しい意味が付け加えられることで、「丘の辺の道」の存在感が次第に現れてくるように思えます。
2019年に「発見」された「高輪築堤」は日本の鉄道の近代化の証であるとともに、「坂上から一体を見渡し」ていた「芝浦の海辺」が近代化していく第1歩の証で、高輪ゲートウェー駅周辺開発の計画を一部変更してまで遺跡の一部が保存再生されることになりました。
2025年度中にオープン予定の「文化創造棟」は、超高層ビルが新たに建ち並ぶこの地の中では異質の、高さ45mの、らせん状にうねうねと「緑の丘」が立ち上がるイメージです。その「屋上庭園」は「四季と共に活動する場」とされ、「かつてこの地は月見の名所だったそう。当施設でも屋上で月見や花見などのイベントを予定。足湯もある憩いの空間。」と説明されています。「丘の辺の道」アネックスとして新たな都市文化を創造する手がかりになることを期待します。

札ノ辻付近からはじまり八ツ山橋付近まで続く南北に細長い(再)開発エリアの延長は2kmほどもあります。その多くがデッキ階で結ばれ、そのデッキ階の上方には多くのテラス(階)などが設置され、緑化される様子がパース等により発表されています。たとえば『品川駅北周辺地区まちづくりガイドライン』p60(⇒品川フィールド20で資料にリンク)ではそうした低中層部に設けられた立体的緑地によって「鳥や昆虫などが飛び石的に利用でき」、「丘の辺」と「海の辺」が生態的につながる様子が断面図風に描かれています。「風の道」の確保も重要な課題です。

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八ツ山橋の少し手前から「御殿山」がはじまります。

御殿山を題材とした錦絵のなかで、「東都名所 御殿山花見 品川全図」が最も「丘の辺の道」のかつての姿をあらわしているように思います。住宅やホテル、学校などに開発された現代御殿山を歩くと、かつての姿の痕跡に出会えます。なかでもミャンマー大使館から御殿山庭園あたりの雰囲気は桜並木とも相まって、かつての御殿山の空間を最も感じられる場所ではないかと思います。

ここが「丘の辺の道」の終点。すぐ先の御殿山橋から歩いてきた方向を振り返ったのが「東京入口(都心探訪211)」。東京を近代化する鉄道敷設のため御殿山が開削されました。御殿山橋を渡り坂を下ると、その先の「海の辺の道」につながります(「品川船玉溜」付近)。

 

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「山辺の道」都市探訪155

「探訪の道」都市探訪158

 

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