アステカ の検索結果:

『高地文明』

…インカ)、メキシコ(アステカ、他)、チベット、エチオピア。 チベットを除くと、緯度の低いこれら地域の高地は、1)気候的に過ごしやすく人間にも動植物にも疾病等が少ない、2)外敵の侵入から守りやすい、との共通項に加え、高地ならどこでもよいというわけではなく、3)必要な木材資源等に恵まれている、4)水資源が得られる、5)比較的広い場所がとれる、6)高地に適応した栽培植物があり動物がいる。チベットは緯度が少し高いですが、2)~6)は共通しているともいえそうです。 これを気候適応の観点…

『古代文明の基層 古代文明から持続的な都市社会を考える』

…墟となっていたそれをアステカ人が発見し、後々まで崇拝の対象としたため、コルテスがやってきて1521年にテノチティトランを破壊したときも生き延び(廃墟の状態だったため、破壊する必要がなかったからと思われる。)現在に至っているようです。考古学的成果のうえに描かれたテオティワカン全図(p30)には迫力もあり、この都市が「英知の集積としての都市」(第2章副題)とするその内容にも興味を引かれるところですが、(現役の)テノチティトランを破壊してそのあとにカトリック大聖堂を建てたとされるコ…

『近代世界システム(2011年版)』と都市・都市計画

…ィトランが陥落。そのアステカの中心都市を破壊して、まさにその上にメキシコシティを建設。1533年、インカの中心都市クスコ占領につづき、そこを破壊してスペイン都市計画によりクスコ建設。利便のため海岸近くに1535年、リマ建設に着手。 しばらくの間、これらメキシコとペルーに「副王」を置き中南米を経営。その間、1536年アスンシオン、1538年ボゴタ、1541年サンチアゴ、1580年ブエノスアイレス(最初の建設は1536年だが1541年放棄)を建設。その他の都市も必要に応じて都市計…

1500年の都市人口

…時点での世界第4位はアステカの中心都市テノチティトランとします。 さらにピサロが向かったインカの中心都市クスコは人口20万人を擁していたといわれるので、(かなりおおざっぱですが)それは185000人のパリより大きかったとします。これもチャンドラーのリストには入っていません。 そうすると5位が同数で杭州とタブリーズ、7位が同数でクスコとイスタンブールとガウル。このあと10位がパリ。大航海時代で幕が明ける近代化によってこのあと関係は逆転。しかし1500年から500年後の現在、都市…

【in evolution】世界の都市と都市計画(2024.4.29更新)

…3734131 ・『アステカ王国』『インカ帝国』 (2017.1.20) http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170120/1484875080 C-4 都市・都市計画のオルタナティブ思考 ・『ティムール以後 世界帝国の興亡1400-2000年』 https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/2021/02/04/215039 ・『ロンドン 炎が生んだ世界都市』 http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/2…

『アステカ王国』『インカ帝国』

…に迫り、1521年にアステカ王国は滅ぼされたのでした。 というのが一般的な世界史の説明だとすると、1つめの図書『アステカ王国』(文献1)は、副題が「文明の死と再生」とされるように、たしかに〈王国〉という入れ物は滅ぼされたものの、その後、スペイン人との結婚や伝統の堅持等のあらゆるプロセスを経てやがて文明が「再生」され今日までつながっていくさまを、「エスノヒストリー」という学術的方法によって描き出しています。 『インカ帝国』(文献2)の方も基本は同じ。 コルテスに征服のノウハウを…