紫式部 の検索結果:
…のあと『光る君へ』(紫式部)もくっつけるとおよそ7世紀末から11世紀初頭までカバーできます。それにしても、歴史学や考古学では「わからない」ことを、骨格の部分ははずさないようにしつつ都市や地域社会の様子を描いていくこのジャンルに魅力を感じます。『日輪の賦』では現在世界遺産登録に向け準備中の藤原京(新益京)の様子が活き活きと描かれるとともに、豪族の協働統治から中央集権律令国家へもがきながら脱皮していく姿が活写されています。 [関連記事] 天武持統(都市探訪417) 🔖検索 「スタ…
…勤していき、終盤では紫式部も(今は亡き夫(藤原宣孝)がかつて赴任した)大宰府にしばらく逗留するとの設定でした。遡って、父(藤原為時)が越前国司として赴任した折は、宋からの侵入に備えつつ、取引したければ博多(の鴻臚館)に回るよう指示せよと道長の意向が告げられました。 本書『大宰府跡』の117頁に、「大宰府から鴻臚館への交通路」という図があり、この図から、「光る君へ」で描いていた西暦1000年頃の日本への入り口に形成されていた都市地域大宰府の様子をありありと読み取ることができます…
…のラストシーンです。紫式部や信長、秀吉も臨時内閣メンバーとなるとんでもない設定ですが、内容はタイムリーな設定でよくできていました。このラストシーンは皇居端の某ビルの屋上で撮影されたとされ、そこはさまざまな撮影に使われているようです。まだ見たことのない都市の景観・風景、、、。今ある場所だけでなく、新たな都市開発などにより、今まであった空間の見え方が変わり、驚き、感動する。都市を探訪して発見する。歴史の中にその姿を想像する。昨日の十日戎の界隈の活気(⇒都市探訪354)も、今まで見…
…ドルです。弥生時代も紫式部の頃も江戸初期も「暮らし」としてはそうは変わっていなかった、、、。逆に、上述の1387ドルのあとをみると、1950年=1921ドル。1973年11434ドル。2003年21218ドル。 話を戻してまとめると、明暦の大火(1657年)はaのような全国で人口が倍増する(江戸も同様)ような時代の、蔦屋重三郎の活躍する18世紀後半はcが全開となる少し手前あたりの、賢い消費者が全国で増大している時代の歴史、と理解することにします。 それにしても、こうした基礎研…
…る君へ』は、少々広くみて950~1050年頃の京という都市の貴族生活などが描かれていて、京都に行くたびにその頃の様子を重ね想像しようとした1年でした。先々週・先週は「刀伊の入寇(1019)」が描かれ、武家の台頭を予感させました。院政がはじまり京は岡崎や鳥羽方面へ拡張。『平清盛』で描かれるような平安後期に入ります。あとは是非、平安前期の京ができていく様子を描く大河を見てみたいと思うところです。たとえば『最澄と空海』とか。 🔖検索 「紫式部」「スタジオだより」スタジオHPはこちら
…書に刺激されて京都をまた逍遥(散歩)してみると、また新たな発見がありそうです。 最後に。やはり「京都思想逍遥」の理論(方法論)編にあたるのが序章です。紫式部の邸宅があった場所とされる蘆山寺あたりの逍遥に関連する文章を1カ所だけ引用させていただきます。「紫式部と西田幾太郎と中原中也と立命館と高野悦子と鴨沂高校と沢田研二と李良枝と頼山陽と高級マンションと。なんの脈絡も文脈もない、歴史の無秩序である。そのなかを、歩く。」(p29) [関連記事]・『散歩哲学』 🔖検索 「京都 散歩」
…ラマ「光る君へ」で、紫式部の源氏物語執筆が軌道に乗りそうです。時代的には1000年と少し。このドラマのおかげで、これまでほとんど理解できていなかった平安中期の日本の姿がいくらかわかってきました。 副題を「地中に息づく都の栄華」とする本書は、長年京都の文化財発掘に携わってきた筆者(梶川敏夫)が、その成果を伝えようと自ら描いたスケッチを補助的に用いながら平安京の姿を伝えようとしたものです。吉川弘文館2024.9.1刊。 発掘成果だけでは「本当にあった京の姿」は断片的で、特に三次元…
…めました。996年に紫式部の父が越前国司として赴任する頃との設定です。源氏物語は、越前から途中で京に戻った紫式部が少ししてから書き始めることになるということで、1000年を前後するこの時期には既に、ひらがなをすらすらと書けるほどに「国風文化」は熟していた。 907年に滅びた唐の大きな影響が無くなったあとの、日本独自の文化・政治経済・社会がジワジワと現われ形づくられる時代です。(紫式部の父は日本との通商を求めて「松原客館」(←現在の敦賀市。場所はわかっていない)に滞留している宋…
紫式部が中宮彰子(一条天皇の妻)に仕えた場所とされる一条院跡を訪ねました。平安宮の北東隅の、大宮通りの向かいにあるブロックに一条院があったとされ、仕事場としては平安宮の中ではないもののすぐ隣ということで、リアルな感じがします。一条院の北側が一条通り。南を中立売通が東西方向に伸びます。 紫式部の自宅は現在の廬山寺あたり(平安京の東端)にあり、そこで源氏物語を執筆していたとされるので、どうやって仕事場へ行っていたのか想像してみます。 『光る君へ』(NHK大河ドラマ)はまだその前の…
…魅力なのではないか。 2024.1.7から紫式部の生涯を描いた『光る君へ』(NHK大河ドラマ)がスタートします。自分なりに平安京の記録や記憶をたどり京都という都市をじっくり味わってみたいと思います。 [関連記事] ・ローマの底力 : 都市文明と都市計画(1) ローマとはどういう都市か 🔖検索 「平安京」 【In evolution】日本の都市と都市計画本記事をリストに追加しました。http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757
…ん) 第三。それでも紫式部が源氏物語を執筆していた頃(1008年に初出とされる)はまだこれくらいの市街化度を保っていたこと、その執筆場所があったとされる現在の蘆山寺あたりはまさに市街化が飽和し当初都市計画外に市街地が拡大しているような場所だったと考えると、京が寂れているとは認識されていなかったかもしれない。(正確かつ深い考察は『京都の中世史』第7巻をご覧ください) 第四。後期の平均市街化スコア3.02というのも、全体としてはなんとか平安京の都市計画はがんばったといえるスコアに…