2019年11月(8~10日)に横浜で都市計画学会全国大会が開催されます。

昨年度から「大会」化された都市計画学会が横浜にやってきます。「大会」化というのは、単なる学術発表会ではなく、開催地の特色を出しながら、実務家やまちづくりにかかわる市民なども参加・参画できる新しい形のイベント(をめざすもの)。

昨晩もそのようなイベントをめざして準備する会合が横浜関内でありました。広く横浜のまちづくりを見て回るエクスカーションや、シンポジウム、トークセッションや展示会、ワークショップなど、最新の都市計画の研究発表とともに、ヨコハマの街やまちづくりをたっぷり味わえる大会になりそうです。

 

[2019.9.20追記] 公式情報は以下の学会サイトで。

https://www.cpij.or.jp/event/conf/2019.html




災害に備える

地震が続いています。

昨日、密集市街地の整備の新たな方向についての原稿ができ編集の方に送ったあとグラッときました。正確にいうと、ゆっくりと揺れるような感じです。最近、東京の、まだ解消していない木密地域のまちづくりにかかわることになったところです。

これも昨日、随分前にたのんだ『AFTER GREAT DISASTERS』(Lincoln Institute,2017)という本が届きました。中国、ニュージーランド、日本、インド、インドネシアアメリカで起きた近年の大災害からの復興に関する比較分析です。たまたまですが、視聴率超低迷のNHK大河ドラマ『いだてん』では一昨日、関東大震災後の様子が描かれました。下町全体が焼失したため、実際には災害直後に大公園等が避難所となり、上野公園50万人、皇居外苑30万人、芝公園20万人、日比谷公園15万人、浅草公園10万人などだったとされます。番組ではそのあとのバラック(仮設住宅)建設場所の不足が課題となっていました。19日の伊藤滋先生の講演「万華鏡都市東京」でも現時点での東京の避難の提案があったばかりです。

 

カテゴリー「災害に備える」の表示場所を上から4番目まで上げます。

 

3つの近隣計画で同時に全市をカバーしたTORBAY(近隣計画をめぐる新トピック(8))

本日昼に手にした雑誌『Planning』2019.5.24号をペラペラめくっていると、最終ページ(p32)に「Torbay adopts total plan coverage」の文字が。「Torbayってどこ?」と読み進めると、「Torquay」を含む3つの近隣計画が同時に、この5月2日にレファレンダムを通過し、Torbay市全体をカバーしたことがわかりました。「Torquay」といえば、アガサ・クリスティーの故郷、トーキー。というだけで私にとってはあこがれの地(←まだ行っていない)。しかしそちらの方に脱線せずに都市計画の立場でこのことの「都市イノベーション」的意味をまとめると以下のようになります。実際には「意味」まではありそうですが、本当に「意義」があるかどうかは、きちんと読み込まないと現時点ではなんともいえませんが。(ではありますが、「都市イノベーションworld」にも追加します。)

 

「都市計画マスタープラン」が全市域を対象とするその都市の全体計画なのに対して、「近隣計画」は、都市の部分(近隣)についてつくられた計画です。2011年のローカリズム法で近隣計画が新しい都市計画となり、ここ7~8年でイギリス都市計画の熱い実践活動が各地で展開されているものです。「そんなのつくってどうするの」との懐疑派もいなくもないのですが、近隣計画を策定し運営するということそのものは民主主義の実践でもあることから概ね好意的に受け止められている、というのが総論です。けれども、「どうせ策定できる近隣なんて金持ちのところばかりでしょ」などという批判もあり、まだまだ改善の余地が多い、としたほうが客観的な状況描写。

さて、そのような中で、「都市計画マスタープラン」(実際には「ローカル・プラン」と呼ばれる)と近隣計画との関係はどのようになるのか、していくべきなのかについて専門家の間でもいろいろな議論のあるところ。ところが今回のTorbay市の3つの近隣計画は、その「ローカル・プラン」と並行して計画策定作業が進み(「ローカル・プラン」は先に採択されている)、3つ同時にレファレンダムを通過し、その後Torbay市によって正式なプランとなった、それが先週の6月19日のことである、というものです。本当にこれが「近隣」計画なのかどうか、その策定プロセスも含めて精査する必要はありそうですが、全市を近隣計画でカバーした、という意味ではこれが第一号。これからじっくり分析したいと思います。

 

4月に公開された『ねじれた家』も見てみないと、、、

『(NHKスペシャル)地下に眠る皇帝の野望』×『(映画)キングダム』×『(新書)始皇帝 中華統一の思想』

記事タイトルの3つのコンテンツをa,b,cと省略し、都市イノベーションworld的に書きます。aは2015放送。bは2019.4公開。cは2019.4集英社新書

 

西でローマ帝国が崩壊したあとも、中国では秦の始皇帝がシステムとして確立した大国の近代的運営方法が基本的には今日まで受け継がれている。aは、近年の始皇帝陵発掘をめぐる驚くべき発見(まだ仮説の段階だが)を、bは始皇帝の中華統一のはじまりの段階を(漫画連載ではかなり進んでいるらしい)、cは統一の極意をbの漫画に描かれたシーンを引用しつつ扱ったもの。

aの驚きに絞ると、350メートル四方で高さ53メートルの始皇帝陵がいわゆる皇帝の墓だと思っていたら、実は、7.5キロ四方の都市的スケールの範囲で副葬品と思われる像や品々が地下から発見されている。陵に隣接する長さ700メートル(幅200メートルほど(画面から読み取るおよその寸法))の区域には当時の宮殿を再現したと思われる箇所やそれらを囲む城壁や門が。これはすなわち都そのものを模したのではないかと。1974年に発見された兵馬俑は、そこから伸びる街路の傍らにつくられた都の護衛兵を表しているのではないかと。始皇帝は13歳で王に即位した直後からこの空間を築きはじめ、39歳の全国統一を経て、50歳で没するまで自らが確立した近代的官僚システムのありさまを擬似的に、都の形も与えながらここに表現・記録したのではないか。今、私たちがこの地を掘り返すことによって、中華帝国として継承されてきた国家運営の極意のようなものが読み取れるのではないかと。

紀元前3世紀の新たなストーリーです。

 

秦の首都は咸陽。Googleマップ見ると、このあたりは咸陽の東40キロほどの場所。咸陽の東にその後長安が築かれたので、長安からみると始皇帝陵は東北へ20キロほど。その長安もどんどん拡大しているので、既に始皇帝陵は長安大都市圏に飲み込まれている感じです。

bやcも合わせて秦について知ることは、「すべての道はローマへ通ず」のアジアバージョンを知ること。今後の発掘と研究の成果が楽しみです。

[関連記事]

・『アジアからみる日本都市史』

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20130319/1363673208

 

本記事を「世界の都市と都市計画」(古代都市と都市文明の形成) に入れました。

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20170309/1489041168

 

『ローマは一日にして成らず』

どの都市にも「最初」があるはず。では、ローマの最初はどうだったか。なぜ「そこ」にローマができたのか。なぜローマは「成った」のか。どのように成ったのか?

本書は、大作『ローマ人の物語』全15巻のうち第1巻にあたる部分で、文庫本では43冊の1,2冊目。以後、全43巻の1,2巻目と呼ぶことにします。

 

「工学部の都市工学科に学ぶ人ならば、何よりもまず先に、哲学や歴史などの人間学を学んでほしいものである。どこに都市を建設するかで、住民の将来を決めるかもしれないのだから。」(1巻p39-40。筆者は哲学科卒の塩野七生。)と物語は始まり、紀元前8世紀の中頃から同3世紀の中頃までの500年ほどが語られます。ここまででようやくイタリア本土の範囲を制覇した段階。

ヨーロッパじゅうを帝国化したローマからみればまだ初期段階ともいえる500年を知るだけでも、イノベイティブな話がぎっしりです。特におもしろかったのは、ローマ人たちが先進都市アテネに1年の視察に行く場面。あまりに先進的な民主制はシステムとしては長続きしないだろうとローマ人は取り入れなかっのだろうと解釈。そうしているうちに7つの丘から始まったローマに手が加えられ(都市計画され)、人口も増えていきます。けれども他民族に攻め込まれて占領されてしまうことも。これはいかんと城壁の強化にも力が入ります、、、

 

まさに「ローマは一日にして成らず」。あの、「すべての道はローマに通ず」となるまでには、まだまだ道のりは長そうです!



本記事を「世界の都市と都市計画」(古代都市と都市文明の形成) に入れました。

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20170309/1489041168

『ローマ亡き後の地中海世界』+『十字軍物語』+『コンスタンティノープルの陥落』

476年に西ローマ帝国が崩壊したあとの、地中海を中心とする当時のヨーロッパ/オリエント世界の、キリスト教/イスラム教勢力の攻防をめぐる歴史ストーリー。1453年にコンスタンティノープルが陥落するまでの約1000年が描かれます。塩野七生著。いずれも文庫本で読みました。きっかけとなったのは、本年1月、2月に文庫化された『十字軍物語』。

必ずしも都市だけを扱ったわけではありませんが、イスラム勢力圏の拡大とイスラム都市の生成、迎え撃つキリスト教世界。なかでもイタリア海洋都市国家間の確執と盛衰、ベネチアという最強国(都市国家)の果たした大きな役割などなどが、手に取るように実感できます。

15世紀にスペインが勢力を伸ばし、あの1492年につながる頃(⇒関連記事)までのストーリー。

こうした大きな流れをつかむと、各地に「都市」として残された空間の中に年輪のように積み重なった歴史の証を読み取る大きな手がかりを得たように思えてきます。また、当時の「都市」「都市国家」「帝国」がどうやって生まれ、維持・拡張され、陥落・崩壊していったか、その空間構造や統治形態がどのようなものだったか、争い事と商売はどう両立できたか、などについても読み取ることができます。あくまで「歴史ストーリー」としてですが。

[関連記事]

1492年 : レコンキスタと大陸発見

 

本記事を「世界の都市と都市計画」(中世都市の創発的進化) に入れました。

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20170309/1489041168

 

「万華鏡都市東京」(伊藤滋先生講演)

昨日東京で開催された都市計画法建築基準法制定100周年記念行事での伊藤滋先生の約1時間の講演。配られたのは月刊『近代建築』2019年2月~5月号に掲載された記事の抜き刷りで18頁。タイトルを正確に書くと、「つくろう東京2040+ 万華鏡都市東京 ~東京のこれから 2040年を目指して~」となっています。

新しい4つの「公理」にもとづく11の「戦術」がその内容で、講演時間の制約から、いくつかの戦術に焦点を当てた内容でした。

『東京計画2030+ たたかう東京』(鹿島出版会、2014)で示されていた国際競争を意識した都心部の将来ビジョンが東京23区全体にひろげられ、刺激的で魅力的で万華鏡のように幻惑的な???、そうでありながら実践的で現実的な、都市計画の新しい姿に挑戦する勇気を与えられる60分でした。

「三笠ビル商店街における共同建築形態とその実現・継承に関する研究」

まだ「再開発」制度が胎動期にあった時代に建てられた、独特な形態でにぎわっている横須賀の「三笠ビル」の研究(I君の修士論文成果)が『都市計画報告』にアップされました。

[都市計画報告のページ]

https://www.cpij.or.jp/com/ac/report/2019.html

[直接pdfに]

https://www.cpij.or.jp/com/ac/reports/18_83.pdf

 

 

アイ・ハヌム : もう1つのアレクサンドリア

アレクサンダー大王の東征(紀元前334-323)でギリシャ文化が東方世界にもたらされた際、各地に軍事拠点としての都市「アレクサンドリア」が多数つくられた。けれども今となってはどこにそれらがあったのかわからなくなってしまった。エジプトのアレクサンドリアを除いては。
との残念な状態のなかから、アフガニスタンで発掘された「アイ・ハヌム」が当時のバクトリア王国の拠点都市アレクサンドリアだったのではないか、とのストーリーが展開される少し前の番組(NHKスペシャル「文明の道」第2集・2003年)に刺激されて、古代ギリシャからローマに至る間の、西と東をつなぐこの都市の意味を、やや要約風に書き留めてみます。ちょうど2018.12.11の記事(⇒関連記事1)にあるように、世界の都市空間史にアジア都市をどの段階で登場させるか考えているところなので、「アイ・ハヌム」の意味を考えることは、「西か東か」ではなく、「西と東を結ぶ都市」の意義を考えることになりそうです。

第一。現実的な話から。1960年代に発掘がはじまり多くの発掘品や記録が残されたあと1979年にソ連アフガニスタンに侵攻。戦争状態となり、カブールの博物館に保管されていた品々は持ち去られてしまった、、、と思いきや情報文化省の手で密かに持ち出され倉庫に隠してあった。けれども発掘現場はちょうど戦闘向きな地形だったなどの理由で荒れ果て盗掘されて、わずかな遺産の断片を別にすれば残骸だけが残ることに。そこで1979年以前に得られていたデータ等をもとに「アイ・ハヌム」がどのような都市だったかをコンピュータ復元していく。
第二。この都市の文化的・歴史的意味。アレクサンダー大王は東征の過程で軍事拠点を設けギリシャ人により都市が築かれた。アイ・ハヌムは東西1.5キロ、南北2キロ。高さ12メートルの城壁で囲われ、丘から平地に降りる斜面を利用した円形劇場や、川辺のギムナジウム(学校)などがあった。これらだけをみればまるでギリシャ都市風である。
第三。しかし、都市の中心部には王宮があり、そこに入ると120本の列柱で囲まれた大きな広間があった。王宮は一見ギリシャ風であるが、よくみるとペルシャなどアジア的な部分ももっていた。さらに、神殿跡から発掘された左足の一部などから推定すると、その像はギリシャの神ゼウスを祀るだけでなく、インド・イランで信仰されていた太陽神ミトラの顔も持ち合わせていた。つまり、ギリシャの古代文化は現地の文化と融合・共生することで多民族が交流する拠点都市となりえたのである。
第四。しかしアイ・ハヌムの繁栄は150年ほどにおわる。

この「文明の道」は5集から成り、アレクサンダー大王の東征からはじまりローマ時代を経てヨーロッパとアジアの文明が強く結ばれていく進化の過程を近年の考古学的成果をもとにリアルに描き出しています。とりわけアイ・ハヌムもそうであったように、「東」と「西」の間に点々とつながる諸都市が、盛衰しつつも常にネットワークのハブとして機能したことが連続した歴史として「見える」ようになることで、現代においてもユーラシア大陸の「東」と「西」がシームレスにつながっているとの視点を与えられたような気がします。

[関連記事]
1.紀元前600年の世界の都市人口
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20181211/1544501391
2.Sunken cities (アレクサンドリア開墾)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20160523/1463991285
3.『イブン・バットゥータと境域への旅』
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170420/1492661171
4.『ユーラシア胎動 −ロシア・中国・中央アジア
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20141218/1418896899
5.ウランバートル
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20120717/1342514398