『時のかたち』

鎌倉でいつも立ち寄るT書房。
棚の上方に、ポツンとSD選書が1冊だけ背を向けて並んでいるのに気づきました。「こんな小さな書店でSD選書というのもめずらしい。」と、タイトルを見ると、『時のかたち』。鹿島出版会2018.8.20刊。ジョージ・クブラー著、中谷礼仁・田中伸幸訳。なんとも魅力的なタイトル、、、
1962年のクブラーの代表作とされる本書。ワクワクする内容です。

「prime objects(素形物)」とは第一の発明群のことであり、「replications(模倣物)」とは、重要な芸術作品が通過したあとに漂っている複製、再生品、写し、縮約版、変形物、派生物といった模倣の系統全体のことだとして、さまざまな例があげられます。「分類された出来事は、粗密に変化する時間の一部として群生していることがわかる」(p.189)との見方から、都市(計画)にかかわりそうなものを探すとたとえば、「拡張されるシリーズ」と「さまようシリーズ」があげられます。前者の例として「前五世紀のギリシャ地方の建築芸術の反映は、それ以前にすでにギリシャの都市が地中海西部の植民地にまでひろがっていたという有利な状況を反映していた。ローマ帝国の建築も、伸長する植民地建設から同じように利益を得ていた」(p.216-216)。後者について、「その変化が最も現れているのは、よく知られているように、中世ヨーロッパ建築の中心が地方の僧院から市中の大聖堂、そして都市全体へと移り変わっていったことである」(p.217)。それら「シリーズ」が群生しているさまが、『時のかたち』だとすると、「都市は時のかたちである」「ある時期に卓越してなされた都市計画は時のかたちとなる」、などどといえなくもありません。

『古代ギリシャ 地中海への展開』

古代ギリシャ・ローマ”とはいったい何か。それはイタリアで起こったルネサンス期に意識化され理想として甦らせようとしたヨーロッパ的歴史観であり、本書が対象とするギリシャに限るならば、1821年にイギリス・フランス・ロシアの保護下に独立が認められた近代ギリシャを、「古代ギリシャ」を引き継ぐ場所として甦らせようとした独特な概念および実態である。その「実態」を明らかにすべく、本格的な調査は1837年にアテネ考古学協会が設立されたのを皮切りに欧米主要各国が研究所を設立。歴史は前に進むのでなく、次第に元に戻る形で研究がなされ、私たちが「歴史」だと思っていたことがどんどん書き換えられていく、、、
2006年に出版された本書(周藤芳幸著、京都大学学術出版会)もそのプロセスにあり、そこまでにわかってきた成果をまとめています。一言でいうと、「古代ギリシャ」文明は独立して存在したかのようにとらえるべきでなく、東地中海を取り巻くように生成・進化したメソポタミア文明エジプト文明からの大きな流れとは無縁ではなく、とりわけ筆者の近年行ってきたエジプトにおける考古学的成果を突き合わせて考えると、ヨーロッパがとらえ(ようとす)る“古代ギリシャ”とは異なる世界像がみえてくる。とりわけクレタ島でみつかった「線文字B」が1952年になってギリシャ語であることがわかるなど、断絶していると考えられていた古代ギリシャ文明がそれ以前の諸文明とつながっている(であろう)ことが次第にわかってきた。たとえば、ギリシャを特徴づける「ポリス」もその前の「ミケーネ世界のなかにはすでにポリス社会へと連続していく社会構造の特徴が少なからず芽生えていたと推測される」(p77)。など、など。

『十六世紀文化革命』以後、理想とする“古代ギリシャ・ローマ”を執拗に甦らせようとする力は都市計画の中に数多く見いだされます。それは、本当の「古代ギリシャ・ローマ」はまだ発掘も初歩段階であるなかで、当時の都市の状況に対処しようとした国王や官僚、建築家やプランナーたちが拠り所にしようとしたありがたい「モデル」だったのでしょう。それは当時の社会構造や文化意識を反映しており、刻々とそれさえも変化していくなかで、時には強く、時には弱く、最初は点として、次第に線から面へ、その時々の都市の状況や思潮などを踏まえて次第に体系化されていきます。

『ロンドン 炎が生んだ世界都市』

本書(講談社メチエ160、1999.6.10刊。見市雅俊著)は、1666年のロンドン大火とその復興という題材をもとに、大陸的・絶対王政バロック都市風に設計提案されたクリストファー・レンの復興計画案がなぜ実施されなかったのか?。せっかく当時のグローバルな流行としてのバロック都市計画を実施するチャンスだったのに、なぜロンドンではできなかったのか?。もしかすると「できなかった」のではなく「しなかった」のか?。しなかったとするとロンドンはそもそも都市計画をしなかったのか?
などの一連の疑問に対し、歴史的にさまざまな評価がなされてきた「ロンドン大火と復興計画」に対する筆者の見解をまとめたものです。内容は「大火」「ペスト」「反カソリック」の3段構成ですが、「ペスト」の部分は復興計画の成果で伝染病が抑えられるようになったこと、「反カソリック」の部分はプロテスタントの国イギリスでなぜバロック都市計画がなされなかったかの国民性の議論になっていて、かえって全体の筋が見えにくくなるため、ここでは純粋に都市計画の成果が読みとれる「大火」の部分まで(およそ最初の100頁)を凝縮して読み取ります。

第一。レンの復興計画はバロック都市計画として良くできていたが実行されなかったと言われている。確かにそのマスタープランは実行されなかったが、翌1667年2月に成立した2つの法案により復興がなされた。1つは「火事調停裁判所」で、家主と借家人のどちらに再建能力があるかを見極めるシステムとして復興過程でうまく機能した。もう1つが「再建法」で、1)資金調達、2)道路整備、3)建築規制で構成された。1)は国からの支援は無かったが民間は自力で再建し公共領域の再建もシティに入る石炭にかかる税が使われ成果をあげた。2)は現実的な範囲で道路改良が行われた。3)は最も成果をあげ石の街に生まれ変わる力となりこのロンドン建築条例はその後の地方都市の復興モデルとなった。
第二。ではなぜマスタープランが実施されなかったのかについては、歴史的にさまざまな解釈があり、明確には断定できない。達観的にみると、イギリスでは古くから王権に制限が加えられバロック的な都市計画を受け入れる素地が弱かった(シティの商人達も住民もそのようなものに反対する)。
第三。ではそのような都市は都市計画しなかったのかというとそうではない、と本書は以下の解釈を展開します。まず、外敵を警戒するなどのために都市性を強めざるを得なかった大陸とは異なり、イギリスでは都市性に対する意識が弱い。そればかりかむしろ都市と農村にまたがるジェントリーを中心として「反都市」ともいえる田園志向をもつ。むしろ都市内の大規模土地を開発する際に「スクウェア」を設けて私生活の快適性に高い価値が置かれた。こうしたイギリスらしい方法こそがイギリスの都市計画であって、大陸型の都市計画とはそもそもの発想が異なっているのだ。「パリの大通りの背後には「未開のジャングル」が潜む。ところが、ロンドンでは優雅な「独立した村落」、すなわちスクウェアが鎮座するのだ」(p91)。(←少しこの文章わからない面もありますが気持ちは伝わる)

あまり「計画」しすぎるのではない、やや日本的なプラグマティズム的感覚。抽象的に言うと、「秩序化」をどれだけ強く求めるかの度合いの違いが、英仏両国の都市計画の違いになっているように思えます。「秩序化」ばかりでなく、「都市化」の強度も求める度合いが異なっている。そしてその違いが社会の権力構造や「都市」に対する意識構造とも大きくかかわっていて、同じ「都市計画」という言葉があてられ(う)るとしても、その内容はかなり異なっているように感じます。

【in evolution】世界の都市と都市計画
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レファレンダム不通過事例の2件目です。(近隣計画をめぐる新トピック(7))

本日届いたPlanning誌2018.9.14号のp32に、近隣計画の最終手続きであるレファレンダムで42.0%の支持しか得られず、過半数に達しないため計画不成立となった事例が報告されています。
イングランド北東部のハル市のタウンセンターにほど近いインナーシティーにある団地が対象エリアのThornton。もともとインナーシティーでの事例はほとんどないといってよいくらい少なく、近隣計画という形を使うメリットがなかなか感じられないのでしょう。投票率も18%ときわめて低調なので、仮に「42%」が「50%」だったとしても、本当に民意を反映したものとは言い難く、苦しい状況は変わらなかったかもしれません。協議不足が原因だったなどの評価がされているようです。
こうしたエリアでは必ずしも近隣計画だけにこだわらずに他の道を選んだ例もあるので(関連記事1)、原因を把握し、どのような都市計画技術と合意形成によればよいのか考える必要があるのかもしれません。

もう1つ。このPlanningの記事で興味を引くのは、その支持率「50%」代のところが他にもあるのが表になっているところです。下からみると、
Swavwick 14.6% 2016.10 いろいろあり取下げたかったが投票へ。関連記事2へ。
Thornton 42.0% 2018.9 本記事。
Olney 50.6% 2016.7
Overton 52.9% 2016.6
Lichfield City 57.0% 2018.2
Spratton 57.7% 2016.7
Sherborne St John 58.4% 2017.5
Buckland Newton 59.5% 2017.11
Stogumber 59.6% 2017.10

[関連記事]
1.居住者が多様なため近隣フォーラムが設立できない場合の代替策 (近隣計画をめぐる新トピック(5))
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20171130/1512024965
2.初のレファレンダム不通過事例が出ました(近隣計画をめぐる新トピック(1))
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20161125/1480071964

『十六世紀文化革命』

世界史の中でも大きな転換点となる1500年。大航海時代を迎えて「新大陸」が「発見」されたとされ、都市にとっても大きな変化があらわれます。けれども、、、
18世紀中頃にイングランドからはじまる「産業革命」までは250年も間が空いています。前記事でローマのルネサンスの到来を告げたあとの、たとえばオースマンによるパリの大改造がはじまる1850年代までには350年もあり、その間の流れを「バロックの都市計画」の生成と体系化として解釈しようとしても、かなり抜けた感じがします。日本のこの時代はまさに都市が勃興してやがてそれらが「城下町」という独特な形態を伴いながら新田開発なども精力的に行われて人口も増加しやがて幕末期に入っていく。その間、1532年に鉄砲を持って種子島に到来したキリシタンは長崎の出島などに押しこめて、いわば文化が日本国内で熟成するような形で各都市の進化がみられたのです。などとしておけそうな感じなのに対して、話はグローバルかつヨーロッパ的な分、少し手ごわそうです。

そこで一度になんとかしようなどと考えず、今回は『十六世紀文化革命』。
山本義隆著、みすず書房2007.4刊。著者は理学部物理学科卒の科学史家。16世紀が「文化革命」と呼べるかどうかについては議論もあり、「十二世紀ルネサンス」や「十七世紀科学革命」などに比べてまだまだ「仮説」あるいは「ストーリー」レベルのものかもしれません。けれどもいつくかの点において確かに「都市イノベーション」と密接にからみそうなので、そのような視点からポイントを並べてみます。
第一。「ルネサンス」というと文芸復興運動の面、とりわけ「復興」の面が強調されがちですが、なぜ「十七世紀科学革命」が可能だったかを考えると、ルネサンス期以降、それまで主に素朴な観察や思考によって考案されてきた法則のようなもの、たとえば地球や太陽の動きについて、望遠鏡のような道具や機械を使って、より正確な姿を確認しようとするようになった。そうして得られた実測値によりその法則の正しさが確認され、もし一致しない場合には別の説明(理論)を考案する、その繰り返しが科学の進化のもととなる。
第二。そうした道具や機械を使うような職人らは当時、身分の低い者とされいわゆる理論のような世界と無縁とみられていた。また、そうした蓄積はギルド内で、あるいは親方から弟子へといった形で伝承されてきたため内に閉じられていた。それらがこの時期にはじめて客観化されはじめた。本書では「客観化」という言葉ではなく、「公開」された点を強調していますが、当時普及してきた印刷技術によってそれらが大量かつ安価にそれを欲する人々の手に渡りアルプスを越えて急速に全ヨーロッパに伝わるようになった。使われた言語も、エリート層しかわからないラテン語ではなく現地語によった。けれどもそれは神のもとでの解釈にしばられていた世界との葛藤の中から当時のエネルギーによって段階的に可能になったものと考えられます。
第三。都市・建築の領域でみると、「空間」の認識そのもののメカニズムや表現方法、伝達方法が定式化され図法化され「公開」されるようになった。本書ではこの分野ではアルベルティ(建築家)やデューラー(画家)の功績が高く評価されます。
第四。都市の状況。都市国家レベルのガバナンスを超えて、徐々に国家レベルに力が集中しはじめます。強い軍隊を備え、火器、特に大砲の進化によって、たとえばルネサンス都市の城壁などはあまり意味をもたなくなってくる。「強い国家」という大枠に護られてこその都市の都市計画。もうすこし言うと、自治都市を守ろうとする側と、城壁を壊してでもその都市を勢力下に入れようとする強い国家。
第五。第四に示すような強力な国家は、ルネサンス期以降に客観化された技芸の発展を「王立アカデミー」などを設立して国家事業化していく。それをリードするのは一部のエリート層であり、むしろそうした知識人は、自ら新しい望遠鏡を製作し観測によりデータを収集・解析して新たな法則や理論を構築するような、新しいタイプの知識人であった。

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『都市計画学 変化に対応するプランニング』

自著ではないので「自己紹介」ではありませんが、新しい都市計画学の教科書が出たので紹介させていただきます。学芸出版社2018.9.25刊。著者は中島直人ら7名。
『都市計画学 変化に対応するプランニング』。9章には「職能論」がついていたり、10章は「ブックガイド」がビジュアルについているなど、楽しい内容です。内容は都市工学(都市計画コース)の分野別を基本としますがオムニバスに陥らないよう構成が明確になっており、教科書的でありながら読み物風(学問分野の基本的考え方が文章で書かれている)になっています。『これからの日本に都市計画は必要ですか?』(⇒関連記事)の問いに答えるように、「2010年代になって都市工で教鞭を取るようになった中堅の教員」(まえがき、p3)によって編まれた都市計画学の書。「10年後にはもっとまともな切り口の「都市計画学」ができると良いが、そのような学問の発展の足がかりとして」(まえがき、p4)世に出すと書かれています。
明日からはじまる2年生の授業でさっそく紹介しますね。

[関連記事]
・『これからの日本に都市計画は必要ですか?』
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20150921/1442847050

ローマの底力:都市文明と都市計画(2) ローマの遺伝子

本年5月に出版された『フィレンツェ 比類なき文化都市の歴史』(岩波新書1719、池上俊一著)には、フィレンツェの成り立ちから現在に至る都市の歴史が精緻かつ濃密に描かれています。都市計画の立場からみても、頁数こそ一部分ですが濃密に凝縮されて書かれている部分をしっかり理解しようとすると、フィレンツェの都市計画史になりそうな内容です。ここではそうした方向ではなく、フィレンツェという存在を材料に、「ローマの底力」を「ローマの遺伝子」という視点から考えます。
フィレンツェカエサルの時代(前100‐前44)に交通の要衝であるこの地が選定されローマの植民市として都市計画されました。その植民市時代の古代フィレンツェは驚くほどほぼそのままに現代まで引き継がれています。「ローマ時代に建設されたフィレンツェでは、再生するまでもなく、市街地のまさにど真ん中に、ローマ時代のままの区画が残っていた」(同書序のp4)。これを同書では「第一層」と呼び、続く中世のフィレンツェを「第二層」とします。この第一層、第二層のうえに連続してルネサンス期がくる。そして「フィレンツェの文化的遺伝子はルネサンス期の終焉とともに枯渇してしまうわけではない」と続きます。とはいえ本書をよく読むと、フィレンツェで花開いたルネサンスの最盛期は15世紀末までであり、図書としては現代までつなげて書かれているとはいえ、それ以降の時代のエネルギーのようなものは、別のところに移ったのではないかと感じた、というのが率直な印象です。
ではどこに行ったのか?

ここで「ルネサンス」の最も端的な理解を言葉にします。
「古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動」
フィレンツェで育ったミケランジェロ(1475-1564)は傑作ダビデ像が1504年に完成する前の1496年にはローマに軸足を移しています。1506年にローマでみつかったラオコーン像の発掘現場にミケランジェロも立ち会ったとされ、「古典古代の本物」(一応作者は推定されているがある意味無名の人)を見た若きミケランジェロの胸の内もいろいろ想像したくなります。文化の復興というのであれば、みじめにも打ち捨てられたローマという都市そのもの(概数ではフィレンツェの人口10万に対してローマの人口2万)をなんとかしなくてはならない。ミケランジェロがそう思ったかどうかは別として、まさにアーバン・ルネッサンスこそが究極のルネサンスと認識されてもおかしくありません。後にミケランジェロが手がけたカンピドリオ広場の再生(1538年頃に着手され、完成までにはかなり長い年月を要した)は、丘の上の広場の再生という次元を超えて、ローマの起源を象徴する丘そのものの再生やそれに伴うローマらしい風景の再生など、ローマという都市のルネッサンスのはじまりを告げる重要な都市計画だったのではないか、との印象を持ちました。毛織物業からスタートし銀行業で儲け(フィレンツェの黄金時代を築い)たメディチ家の財力(というよりむしろ蓄財能力?)は、この時代にローマ教皇となったレオ10世(1513-21)、クレメンス7世(1523-34)らによってローマの復興・再生への道筋をつけるのに大いに貢献したのでしょう。

古代「ローマの遺伝子」は植民市フィレンツェに植えられ成長し、それがまたローマにもどってきて本格的なルネサンスのエネルギー源となった。そもそも本家ローマはローマという都市そのものだったのだから。
以後、時代区分の上では「ルネサンス」と呼ばなくなったとしても、16世紀前半にはじまったローマの再生運動は新たなタイプの都市計画を生み出していくのでした。

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ローマの底力:都市文明と都市計画(1) ローマとはどういう都市か?

京都。日本国内で最も歴史を堆積させたこの大都市のことがようやく最近理解できるようになってきました。けれどもこの都市は本家長安を模してつくられた都であるうえ、794年から数えても1200年余にすぎません。たびたび戦火で焼かれているので、見えている「物」そのものは平均すればさほど古いものではないと思われます。
ローマ。「都市」の源流ともいえる古代からの都市の堆積が2500年余りもあります。単に堆積しているだけでなく、古代の時点で技術力がきわめて高かった、、、そのローマの底力を都市イノベーション的に考えてみます。
最も驚くのは(イメージ的にいえば)、その2500年の堆積が言葉のレベルでなくゴロゴロころがる「石」という実態レベルで街じゅうにころがっている。朽ち果てたものも、発掘された断片も。あるいは、朽ち果てた古代の水道施設の横に別の複数の時代の施設が並んで走っている。古代の建築を壊した部材で別の時代の新築がなされている。それも既に500年経っていたりする。「今」という時点でそれらが混じりあって現代都市ローマとなっている。
古代ローマともいえるしルネッサンスローマでもあり、近代ローマであり現代ローマでもある。その堆積が2500年もあるというのは半端じゃない。それがローマ。ある意味、そのことが都市イノベーション(イノベーション都市)。少し掘るといろいろなものが出てくるので、それをとっておくために博物館が1つ必要になるような都市。「ローマの博物館」なのか、「ローマが博物館」なのか???
掘るとたくさん出てくるからやめておこうとしたとしても、歴史の中で時々まとまった都市計画が必要になり、あるいは機運が盛り上がり、また時代を画す物ができる。たとえば300年くらい経つとそれは歴史的なものになる。衰退した時期もあったので、2500÷300≒8回分堆積しているかというとそういうわけでもありませんが、この底力がローマのパワーであり他にない魅力ではないかと思うところです。

教科書にも別の箇所を引用させていただいている青柳先生の本の以下の言葉が、実感をもって迫ってくるのでした。
「これらの造営事業を推進する過程でコンスタンティヌスは、ローマをキリスト教の都に改造することがいかにむずかしい事業であるかを認識したと思われる。都の中心部は、歴代の皇帝たちが巨額を投じて建設した建物が軒を接して建ち並び、あらたな建物を建設する余地はなかった。既存の建物を改築しようにも、皇帝たちの名前と伝統宗教のしみ込んだ過去の栄光を拭い去ることはできなかったし、市民の反発も無視できなかった。」(『皇帝たちの都ローマ』青柳正規著,中公新書1100,p393-394)

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「地域はどう変わるか 2010年代から2020年代に向かって」(「地域創造論」開講10月8日)

本年度も「地域創造論」を開講します。

2012年度にはじまった「地域創造論」。これまでに設定した「ポスト3.11の新しい地域像」(2012-14年度)、「ローカルからの発想が日本を変える、世界を変える。」(2015-17年度)での成果も踏まえながら、もうすぐやってくる2020年代に向かって地域創造を考えます。

歴史的建造物(商館・邸館)は誰が保存継承しているのか? (ヴェネツィア都市イノベーション(2))

横浜の近代的歴史建造物は毎年のように惜しまれながら取り壊されたり壁面だけ保存されたりしています。横浜山手の洋館も同様に、行政の力だけでは支えるのも限界があり、次々と無くなっているのが現状です。
街全体に歴史的建造物がぎっしり詰まっているヴェネツィア、なかでもカナル・グランデに沿って「いかにもヴェネツィア風」に堂々と立ち並んでいる商館・邸館群はどのようにして今日まで継承されてきたのだろうか?というのが実際に見ていだいた疑問です。ここでは、『Grand Canal A History of Venice』(ARSENALE EDITRECE、2013.12刊。第2版。第1版は2009)という図書を頼りに「都市イノベーション」の本質にかかわりそうだと思われる事例やエピソードをいくつか見ていきます。
第一。グラッシ邸。大運河沿いの建物としては“最後のモニュメンタルな邸館”とされる、ガイドブックにも載っている有名な邸宅ですが、実はこの邸を1748年に建てたグラッシ家は大金を払って高貴な称号を手に入れ(1718年のこと。当時ヴェネツィアオスマントルコとの戦争で疲弊していて資金が欲しかった)ヴェネツィアに拠点を築いた、とされるように、世界中の国や貴族等がなんとかこの運河沿いに栄誉ある館を築こうとしていたさまがうかがわれます。そのグラッシが1842年に亡くなると(生前の1840年に既に売却されていたが亡くなるまでの居住は認める条件だった)、1844年にオペラ歌手(Angero Poggi)が購入。しかし翌年1.4倍ほどの値段で転売されます(土地ころがし!邸ころがし?)。この邸はホテルに転用。しかし早くも1857年には貴族が購入。などと続きます。(少し時間が飛んで)1950年代にこの邸はヴェネツィアの産業家に購入されて国際アート・コスチュームセンターに転用。1984年にはイタリア最大の自動車会社フィアットが購入。大きなイベントに対応できるよう改装工事を施します。さらに2006年にはファッション産業界大手のピノーに売却。現代美術にふさわしい空間として安藤忠雄による改装がなされて、現在、国際的にも高い評価を受けています。(グラッシ邸の転売の経緯の一部は『Palazzo Grassi Venice』Skira Guides,2007を参照している)
第二。時代をさかのぼって15世紀前半に建てられたカ・ドーロ。「ビザンティン時代の商館を模した」建物とされます。19世紀初頭には“廃墟ビル”と言われていたようですが19世紀中葉にロシア皇太子が著名なバレリーナへの贈り物として購入。このバレリーナは“ヴェネツィア邸館コレクター”とも呼ばれ、自ら居住する邸のほかにいくつも邸館を所有。皇太子はあるとき改装を思い立つのですが、オリジナルの重要なデザインを壊してしまい、残念なことだとされた時期もありましたが、「1922年に1894年から所有者であったジョルジョ・フランケッティ男爵から国家に遺譲された。往時の華やかさを取り戻すべく大々的な修復が行われ(階段の再建も含む)、現在はギャラリーとして一般に公開されている。」(Wikipedia)とされます。まさに「カ・ドーロ邸物語」です。
最後にもう1邸。さらに歴史をさかのぼり13世紀初頭の話。「トルコ人商館」という名の建物。主に東方貿易の商人たちの商館とされる建物です。歴史が長い分、売ったり買ったりあげたりの話が延々と続くので省略。直接トルコが登場する部分まで飛ぶと、17世紀になって(その時点の所有者の)ヴェネツィア政府は出入りしていたトルコ人にこの建物をホテルにして貿易をしながら滞在できるようにとオファー。しばらくそのように使っていた(建物の1階部分は大運河に面して荷揚げスペースがある)が、オスマン帝国との関係悪化等のため貿易も不振に。1732年にはビルの一部が崩壊してしまいます。しかし1838年に“palazzinaro(投機家)”が購入。リノベーションして高級アパートに。1860年には当時オーストリア帝国支配下にあったヴェニス市によりこの建物は買い上げられさらに転用されます。今日、市立自然史博物館となっているのがこの建物です。と書くとすぐにアクセスできそうにみえますが、この建物はヴェネツィアで最も到達しにくい建物でした。運河からは行けず、迷路のような路地を何度も失敗しながら到達できた所です。

以上、代表的と思われる事例を3邸ほどみてみましたが、『Grand Canal A History of Venice』には44邸の物語が書かれており、1つ1つがとても興味深いです。やや趣味的なきらいもありますが、ヴェネツィアの「顔」となるカナル・グランデの商館・邸館の物語はヴェネツィアという都市そのものの物語であり、その建物の建築時期により多様な表情があらわれ、一見手を加えられていないように見えながら何度も改装され、朽ちようとするたびに新しい所有者・投資者・改装者があらわれる。やはり「あそこに」邸を構えることの栄誉がそうさせてきたのでしょう。そのような「栄誉」ある場所を少なくともこれまで長く維持してきたことが、ヴェネツィアという都市のイノベーションとパワーの象徴なのだと感じます。

【in evolution】世界の都市と都市計画
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