3例目の「Neighbourhood Development Order」が出ました

「近隣計画」のほとんどの事例は「Neighbourhood Development Plan」という計画書タイプのものですが、もうひとつの方法として「Neighbourhood Development Order」という、許容される開発を直接示す方法があります。
Planning2018.10.26号(p26-27)にその「Neighbourhood Development Order」の3例目となった「Broughton Neighbourhood Plan Neighbourhood Development Order」の紹介記事が出ています。過去の2事例の解説は下記[参考資料]に譲り、今回の3例目の意味・意義を考えてみます。かなりテクニカルですが、重要事例として。

第一。今回のBroughton(ロンドンの北100キロほどにあるKetteringという町を構成する1つのビレッジ)の事例は、そのビレッジ全体の「Neighbourhood Development Plan」も同日(2018.9.20)にレファレンダムを通過しています。つまり、「プラン」で全体像を描き、その中の重要な敷地に対する計画許可方針を「オーダー」で規定するという2層方式です。2層方式という意味では第2号Ferringの方法に近いといえます。
第二。具体的にいうと、Broughtonには小さ目の住戸が不足していること、BT(ブリティッシュテレコム)の用地がいずれデジタル化で転用できると見込んでその敷地をどのような形でなら計画許可を出せるかの方向づけを「オーダー」で書き込むことを、「Neighbourhood Development Plan」で示したうえで、「オーダー」で具体的に規定しています。それによれば、1または2ベットルームの小型の住戸とし、最低5戸から最大7戸までとすることを基本として、多くの条件が書き込まれています。
第三。Planning誌では、こうした特定敷地の許可条件を示す方式ははじめてのこととしています。というのも、第1号のコッカーマスの事例では4本の「オーダー」が策定されていますが、いずれも中心商店街でのエリアのルールを定めたものであって、「この」敷地というように特定はしていません。第2号がFerringでよいとすると、この事例は「特定」の3つの敷地に対する「オーダー」を規定していますが、許可条件というよりも、当該コミュニティで何を建てたいと思っているか(community right to build order)が書かれているものなので「許可条件」とは異なると考えられたものと思われます。

少しジャンプして日本風に言うなら、地区まちづくりプランを策定する傍ら、プランだけでは実現性が必ずしも高くないため、重要敷地(群)あるいは戦略ゾーンについてはミニ地区計画(あるいは地区まちづくりルール)のようなものを立てておく、という感じでしょうか。ただし日本の地区計画には最低規模の目安のようなものがあるなど、少し工夫を要するかもしれません。

[参考資料]「3例目」のここでの解釈
ここでは、以下のように考え本文を記述しています。
■1例目=2014.7.17にレファレンダムを通過したコッカーマス。4つのNeighbourhood Development Orderで構成される。中心商業地における4つのルールをそれぞれで規定している。
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20131203/1386068976
■2例目=2014.12.10に通過したFerring(Neighbourhood Development Orderの特殊形として規定された「community right to build order」。3敷地に対する3本のルールとなっている。同時に「Neighbourhood Development Plan」が策定されており、その計画書の中で3つの主要敷地が位置づけられ、それらの実現のためのツールとして「オーダー」が用いられている。
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20150119/1421664618

宿泊税物語

2018年10月1日より、京都市が(日本としては)新しいタイプの宿泊税を課税することになりました。実は私も最近、とられてきたばかりです。2019年4月1日からは金沢市でも類似の宿泊税が課税されます。類似でないものは、これまで東京都や大阪府が課していたもので、1万円未満の宿泊は非課税などとする形です。大阪ではもっととろうと最近7千円未満に引き下げようとしているようですが。倶知安町では定額でなく定率の課税が検討されているようです。福岡市は福岡県とどちらが徴収するかで議論の最中のようです。
徴収予定額ですが、京都市は年間フル稼働する2019年度を45億円と見込んでいます。熱海市でも検討中ですが、簡単な試算によると一般観光予算4億6千万円に対して1泊200円で300万人に課税すると6億円と、かなりおいしい話。けれども当然そういう話には、観光政策やビジョンもちゃんとしてないのにそんなのないでしょ、などの批判が。

たとえばヨーロッパでも、この宿泊税は各国の首都などを除くと新しい動向にあるようです。イタリアでも2010年代に急速に広まったようで、ホテルのランク等によって1泊1ユーロから数ユーロ(高級ホテルはもっと高額)徴収されます。ローマで2011年1月1日に条例が施行された(年間100億円の徴税を見込む)際の話題が的を得ていそうなので(岡田直子さんの当時のブログ。全国紙La Repubblicaからの引用による)、少し紹介(引用)させていただきます。(激しいのはやめにして、、、)
批判的なものとしては、
・自分たちの財政難を、観光客へ物乞いしてまかなうのか?ローマ市の経営能力欠如を、観光客にカバーさせるのか?
・ローマはイタリアの首都である。つまりこの国の貧困の度合いを表している。
・滞在税を導入する前に、パリと同じクオリティのサービスを提供すべき。ローマではバスを45分待つのはザラ、道は汚く、メンテナンスもされていない。
賛成派の意見も、
・ツーリストのセレクションに繋がるので、良いことだ。つまり富裕層のツーリストが増え、質の良くないツーリストは来なくなるだろう。
などと、結構重要な論点も含んでいて、他人事とも言っていられません。

帆船日本丸(にっぽんまる) 大規模修繕工事に入る

本日11月1日より、帆船日本丸の公開が中断されます。
氷川丸と同じ1930(昭和5)年に竣工したこの日本丸氷川丸が太平洋を横断する高速貨客船だったのに対し、日本丸は航海練習船朝日新聞デジタルの記事(2018.6.15)によれば、
「全国10都市が争った誘致合戦の末、横浜が保存地に選ばれ、85年から一般公開されている。当時、市や商議所などが「誘致保存促進会」を設立し、約83万人の署名を集め、維持管理費の寄付を募ったという。」

しかし船体の老朽化が進み、2010(平成22)年早春、80歳となった日本丸をなんとかしなければと「帆船日本丸保存活用検討委員会」が発足。その年の夏に提言書が横浜市に手渡されました。(⇒関連資料1)
そこでは、同じ年に建造され近年修繕された氷川丸が100歳(2030年)を目標にしていたのに合わせて、日本丸も「建造から100年」と目標を掲げています。しかし何よりもそうした修繕に向けて重視しているのは市民の理解・応援でした。というのも、一般に馴染みのある客船だった氷川丸とは異なり、日本丸は訓練のための練習船であるため、公開されていたとはいえ一般市民に馴染みのある船とは言えません。もちろん、帆を張ったその雄姿はみなとみらいを訪れる人々に強い印象を与えてきたと思われますが、83万人もの署名のもとに最初に日本丸を誘致した時代の熱気は失われていました。「いくらかかる」という点もさることながら、本当に横浜市民が日本丸を大切に思っているのか、これからも大切にしていきたいのかが、こうした歴史的建造物(この場合は船)の保存のためにはとても重要です。逆にいうと、そうした広い支持が得られない多くの歴史的建造物は次々に姿を消している。一委員だった自分も当時、船底の鉄板などの腐食が進んでかなり危ない状況になっているとの説明を船内で受けました。

あれから8年。ようやく大規模修繕工事が始まることになりました。
本年6月13日には「帆船日本丸保存活用推進委員会」が設立され、目標額を3000万円と定めて募金活動がはじまっています。(⇒関連資料2)
事業費は6億円。船体・船底の鋼板等の腐食部分の修繕をはじめ、漏水防止工事、老朽化ワイヤーの塗装・交換、搭載機器、居室等の修繕が予定されています。
工事が終わり再び公開される日が楽しみです。と同時に、日本丸周辺からのアクセスルートや日本丸のある風景のさらなる価値向上がめざされることを期待しています。

[関連資料]
1.提言書(2010.7)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/basicinfo/torikumi/pdf/0722.pdf#search=%27%E5%B8%86%E8%88%B9%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%B8+%E6%8F%90%E8%A8%80%27
2.寄付のお願い(日本丸メモリアルパークHP)
http://www.nippon-maru.or.jp/supporters/

Local PlanとNeighbourhood Plan (都市マスと近隣計画)

近隣計画をいかに策定するかが中心テーマだったローカリズム法施行後の5年間のあと、都市計画システム全体のなかでの近隣計画のあり方を考える段階にさしかかってきました。
Town & Country Planning 2018年9月号(p344-349)に、地方自治体の都市計画部局が近隣計画をどう扱っているかの興味深いレポートが出ています。
調査の詳細は書かれていないのですが、この調査はイングランド南東部の自治体へのサンプリング調査です。
そもそも地方自治体の都市計画部局としては、自ら「Local Plan」を策定・更新するのが本業であるなかに、新法によって「Neighbourhood Plan」が位置づけられたために、さみだれ式にあがってくる近隣計画策定を支援しつつ、それらとも整合をとりながらLocal Planを維持・更新しなければなりません。これを業務量増大ととらえ非積極的にとらえるか、これまでできなかった地域のきめ細かな計画ができるばかりか各地でエリアマネジメントが盛んになるのでパートナーが増えてよかったとみるか、こうした近隣ベースのまちづくりは別の方法で取り組んできたのに近隣計画ができてしまったので困った事態だととらえるのか。新法では「どうとらえよ」とまでは規定していないため、計画当局のとらえ方はさまざまである、というのが本論説の内容です。
今、3つのとらえ方を説明しましたが、本論説ではそれらを「reactive(受け身型)」「integrative(統合型)」「deflective(いなし型)」の3つに分類。(論説での順番は「deflective」「reactive」「integrative」)
解説されている内容と多少ニュアンスが異なりますが、日本の文脈に即して説明すると以上のような感じです。実際には住宅の割り付け(自治体で受け持つべき戸数、それらを実際に建てるべき敷地の特定など)をめぐるきわめてテクニカルかつ政治的な内容などもあるので、ここでは省略します。

これからしばらく、この種の議論がなされ、さらに実践が深まると思われます。

カンピドリオの丘にあるカピトリーノ美術館の上階のテラスから見える風景(ローマの底力:都市文明と都市計画(3))

中央のやや奥まってみえるサンピエトロ大聖堂のドームの両翼に2つのドームが見え、さらにそれぞれの両翼にまた別の2つのドームがあることで、サンピエトロ大聖堂のドームをまんなかに5つのドームがリズム良くパノラマに見える場所。
このような場所を誰がどういうつもりで設計(設定?)したのか。ローマには7つの丘があるとはいえ、このような高さから、このようなアングルおよび視界でこうした風景を眺められるとは。このテラスは増築されて張り出した美術館の屋上でもあるので、その増築をしたときに、元の美術館と接続させつつテラスをつくることによって、美術館内部だけでなく美術品ともいえるローマの風景をもゆったりと眺められるように考えたのでしょうか。
この階はカフェとなっていて、今ホームページを見てみると夜にはパーティーなども開きながらライトアップされた風景を味わえるようになっている様子。けれども昼近くのそのテラスは人もまばらで、こんな贅沢な風景を独占してよいのだろうかと戸惑うほどのゆったり感です。
美術館からの眺めはテラスからだけではありません。特に上階の窓から見える、それぞれが窓の形に切り取られたローマの風景も魅力的です。

「ローマ神の最高神であったユピテルやユノーの神殿があり、ローマの中心であり、現在もローマ市庁舎が位置する」(Wikipedia)とされるカンピドリオの丘。古代ローマにはサンピエトロ大聖堂はなかったのでしょうが、逆に、今は廃墟となっているフォロ・ロマーノが機能していた。その機能していた古代ローマでこのカンピドリオの丘がどのようなものだったか。今見えている風景のどの部分が引き継がれているのか。人々は何を考えていたのか、、、

たとえば丘からの風景といえば横浜山手。ローマの2500年と比べるとたった160年と短いですが、本当はもっと味わえる風景、見え方、時間、場所がたくさんあるはず。季節や天気も加えましょうか。もちろん、開港以来の歴史も忘れずに。

[関連記事]ローマの底力:都市文明と都市計画
(1)http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20181004/1538615517
(2)http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20181005/1538703831

『明治二十二年陸地測量部発行・京都中部実測図』(京都と都市イノベーション(その6))

今週火曜日(2018年10月23日)は、「明治」に改元されてから150年にあたる日。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」もいよいよ明治に入り、江戸幕府を倒したのはよいのだけれど新しい体制づくりができておらず(というよりも旧体制から土地や人民をとりあげる版籍奉還の段階。最近出た『江戸東京の明治維新岩波新書2018.8.22刊もその「籍」を確定することがいかに困難だったかを描いていておもしろい)、各地で反乱が起きそうな不穏な空気が、、、

本図(縮尺2万分の1。参照しているのは「知郷書販」から出されたもの)は、明治22年発行とはいえ明治になった頃の京都の様子が一目でわかり、日本の市街地がまだコンパクトにまとまりピュアだった頃の様子が確認できる貴重な資料です。現東海道線はまだ伏見稲荷経由でぐるっと南に迂回しています。1890年に加茂川(鴨川)まで達したとされる琵琶湖疏水(⇒その1その5)はまだ図上には見当たらないなど、本図の「発行」と実際の内容がズレでいるかもしれませんが、むしろそれは「まだ近代化の初めだけしか出ていないのでより明治維新の頃により近い内容」と考えることにします。たとえば現東海道線は当時市街地の南端だった七条通(⇒その3)の南に摺り寄せるように敷かれています。
禁門の変(1864)で焼失したとされる室町通りから北野天満宮にかけて(一条通より北)はほぼ市街地的になっていますが、二条城あたりから南はそのあたりのラインが京都の西端です。東端に目を転じると、三条通(⇒その4)が大津方面から京都に入ってくる様子がよくわかります。市街地の北端も御所北にある相国寺あたりまでで、以上のようなコンパクトな京都に近代都市計画が構想されていったことがよく理解できます。
少し広域にみると南方には「伏見」や「桃山」がこれまたピュアな形でとらえられ、巨椋湖(巨椋池)は京都市街地の半分ほどもあり、「淀」のかつての姿がありありとわかります。

【In evolution】日本の都市と都市計画
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http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757

『都市の起源』

世界最古の都市はどこか。
本ブログでは日本の最古の都市といえるようなものだったかもしれないと言われている纏向(まきむく)遺跡について紹介していますが、世界最古となると、、、
本書『都市の起源』(小泉瀧人著、講談社選書メチエ620、2016.3.10刊)では、考古学の最新の成果をもとに以下のように推定しています。まさに世界最古の「都市」を『時のかたち』として推定する作業の中間報告。

第一。従来から世界最古の都市と言われてきたジェリコは、そうではないと却下。
第二。却下の理由でもあるのですが、「都市的集落」が「都市」といえるようになるための3つの必要十分条件をあげます(1950年代にV.G.チャイルドが唱えた説にもとづき筆者が提唱)。「都市計画」「行政機構」「祭祀施設」。
第三。これをあてはめ、今から5300年ほど前にあらわれた「ウルク」を最初の都市と推定。そのすぐあとに、「ハブーバ・カブーラ南」と名付けている都市ができたと推定。
第四。しかし「ハブーバ・カブーラ南」のほうは短命に終わる。もともとこの都市は銀採掘のための新都市のようなもので、川に沿って排水に適さない方位に都市をつくってしまったため用をなさなくなったと推定。(持続的な都市はどれも自然にうまく呼応して立地している)

このように「都市」を定義すると、少しずつ発掘中の纏向遺跡が仮に「都市的集落」と確定できたとしても、「都市」かどうかを判定するにはまだまだ道のりがあり、もし纏向遺跡が単なる「都市的集落」だったとすると、最初の「都市」はどこかを考えなくてはならないことに。あくまで1950年代に提起されたチャイルド説や本書の見解に則るならばの話ですが。

【in evolution】世界の都市と都市計画
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『時のかたち』

鎌倉でいつも立ち寄るT書房。
棚の上方に、ポツンとSD選書が1冊だけ背を向けて並んでいるのに気づきました。「こんな小さな書店でSD選書というのもめずらしい。」と、タイトルを見ると、『時のかたち』。鹿島出版会2018.8.20刊。ジョージ・クブラー著、中谷礼仁・田中伸幸訳。なんとも魅力的なタイトル、、、
1962年のクブラーの代表作とされる本書。ワクワクする内容です。

「prime objects(素形物)」とは第一の発明群のことであり、「replications(模倣物)」とは、重要な芸術作品が通過したあとに漂っている複製、再生品、写し、縮約版、変形物、派生物といった模倣の系統全体のことだとして、さまざまな例があげられます。「分類された出来事は、粗密に変化する時間の一部として群生していることがわかる」(p.189)との見方から、都市(計画)にかかわりそうなものを探すとたとえば、「拡張されるシリーズ」と「さまようシリーズ」があげられます。前者の例として「前五世紀のギリシャ地方の建築芸術の反映は、それ以前にすでにギリシャの都市が地中海西部の植民地にまでひろがっていたという有利な状況を反映していた。ローマ帝国の建築も、伸長する植民地建設から同じように利益を得ていた」(p.216-216)。後者について、「その変化が最も現れているのは、よく知られているように、中世ヨーロッパ建築の中心が地方の僧院から市中の大聖堂、そして都市全体へと移り変わっていったことである」(p.217)。それら「シリーズ」が群生しているさまが、『時のかたち』だとすると、「都市は時のかたちである」「ある時期に卓越してなされた都市計画は時のかたちとなる」、などどといえなくもありません。

『古代ギリシャ 地中海への展開』

古代ギリシャ・ローマ”とはいったい何か。それはイタリアで起こったルネサンス期に意識化され理想として甦らせようとしたヨーロッパ的歴史観であり、本書が対象とするギリシャに限るならば、1821年にイギリス・フランス・ロシアの保護下に独立が認められた近代ギリシャを、「古代ギリシャ」を引き継ぐ場所として甦らせようとした独特な概念および実態である。その「実態」を明らかにすべく、本格的な調査は1837年にアテネ考古学協会が設立されたのを皮切りに欧米主要各国が研究所を設立。歴史は前に進むのでなく、次第に元に戻る形で研究がなされ、私たちが「歴史」だと思っていたことがどんどん書き換えられていく、、、
2006年に出版された本書(周藤芳幸著、京都大学学術出版会)もそのプロセスにあり、そこまでにわかってきた成果をまとめています。一言でいうと、「古代ギリシャ」文明は独立して存在したかのようにとらえるべきでなく、東地中海を取り巻くように生成・進化したメソポタミア文明エジプト文明からの大きな流れとは無縁ではなく、とりわけ筆者の近年行ってきたエジプトにおける考古学的成果を突き合わせて考えると、ヨーロッパがとらえ(ようとす)る“古代ギリシャ”とは異なる世界像がみえてくる。とりわけクレタ島でみつかった「線文字B」が1952年になってギリシャ語であることがわかるなど、断絶していると考えられていた古代ギリシャ文明がそれ以前の諸文明とつながっている(であろう)ことが次第にわかってきた。たとえば、ギリシャを特徴づける「ポリス」もその前の「ミケーネ世界のなかにはすでにポリス社会へと連続していく社会構造の特徴が少なからず芽生えていたと推測される」(p77)。など、など。

『十六世紀文化革命』以後、理想とする“古代ギリシャ・ローマ”を執拗に甦らせようとする力は都市計画の中に数多く見いだされます。それは、本当の「古代ギリシャ・ローマ」はまだ発掘も初歩段階であるなかで、当時の都市の状況に対処しようとした国王や官僚、建築家やプランナーたちが拠り所にしようとしたありがたい「モデル」だったのでしょう。それは当時の社会構造や文化意識を反映しており、刻々とそれさえも変化していくなかで、時には強く、時には弱く、最初は点として、次第に線から面へ、その時々の都市の状況や思潮などを踏まえて次第に体系化されていきます。

『ロンドン 炎が生んだ世界都市』

本書(講談社メチエ160、1999.6.10刊。見市雅俊著)は、1666年のロンドン大火とその復興という題材をもとに、大陸的・絶対王政バロック都市風に設計提案されたクリストファー・レンの復興計画案がなぜ実施されなかったのか?。せっかく当時のグローバルな流行としてのバロック都市計画を実施するチャンスだったのに、なぜロンドンではできなかったのか?。もしかすると「できなかった」のではなく「しなかった」のか?。しなかったとするとロンドンはそもそも都市計画をしなかったのか?
などの一連の疑問に対し、歴史的にさまざまな評価がなされてきた「ロンドン大火と復興計画」に対する筆者の見解をまとめたものです。内容は「大火」「ペスト」「反カソリック」の3段構成ですが、「ペスト」の部分は復興計画の成果で伝染病が抑えられるようになったこと、「反カソリック」の部分はプロテスタントの国イギリスでなぜバロック都市計画がなされなかったかの国民性の議論になっていて、かえって全体の筋が見えにくくなるため、ここでは純粋に都市計画の成果が読みとれる「大火」の部分まで(およそ最初の100頁)を凝縮して読み取ります。

第一。レンの復興計画はバロック都市計画として良くできていたが実行されなかったと言われている。確かにそのマスタープランは実行されなかったが、翌1667年2月に成立した2つの法案により復興がなされた。1つは「火事調停裁判所」で、家主と借家人のどちらに再建能力があるかを見極めるシステムとして復興過程でうまく機能した。もう1つが「再建法」で、1)資金調達、2)道路整備、3)建築規制で構成された。1)は国からの支援は無かったが民間は自力で再建し公共領域の再建もシティに入る石炭にかかる税が使われ成果をあげた。2)は現実的な範囲で道路改良が行われた。3)は最も成果をあげ石の街に生まれ変わる力となりこのロンドン建築条例はその後の地方都市の復興モデルとなった。
第二。ではなぜマスタープランが実施されなかったのかについては、歴史的にさまざまな解釈があり、明確には断定できない。達観的にみると、イギリスでは古くから王権に制限が加えられバロック的な都市計画を受け入れる素地が弱かった(シティの商人達も住民もそのようなものに反対する)。
第三。ではそのような都市は都市計画しなかったのかというとそうではない、と本書は以下の解釈を展開します。まず、外敵を警戒するなどのために都市性を強めざるを得なかった大陸とは異なり、イギリスでは都市性に対する意識が弱い。そればかりかむしろ都市と農村にまたがるジェントリーを中心として「反都市」ともいえる田園志向をもつ。むしろ都市内の大規模土地を開発する際に「スクウェア」を設けて私生活の快適性に高い価値が置かれた。こうしたイギリスらしい方法こそがイギリスの都市計画であって、大陸型の都市計画とはそもそもの発想が異なっているのだ。「パリの大通りの背後には「未開のジャングル」が潜む。ところが、ロンドンでは優雅な「独立した村落」、すなわちスクウェアが鎮座するのだ」(p91)。(←少しこの文章わからない面もありますが気持ちは伝わる)

あまり「計画」しすぎるのではない、やや日本的なプラグマティズム的感覚。抽象的に言うと、「秩序化」をどれだけ強く求めるかの度合いの違いが、英仏両国の都市計画の違いになっているように思えます。「秩序化」ばかりでなく、「都市化」の強度も求める度合いが異なっている。そしてその違いが社会の権力構造や「都市」に対する意識構造とも大きくかかわっていて、同じ「都市計画」という言葉があてられ(う)るとしても、その内容はかなり異なっているように感じます。

【in evolution】世界の都市と都市計画
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