『<軍港都市>横須賀』と『YOKOSUKAビジョン2030【案】』(都市は進化する36)

2021年8月1日が発行日の『<軍港都市>横須賀』(吉川弘文館、高村聰史著。副題が「軍隊と共生する街」)を読みました。歴史書のため、また<軍港>機能の変遷を主軸とする分析であるため、一般の都市計画史とは異なる内容ですが、逆にいえば、この書から横須賀の“特別な都市計画”を読み取ることができる貴重な書です。2021.1.30の記事「国際観光温泉文化都市」がそうであったように、全国に14件(17都市)しかない「特別都市建設法」都市の1つである、「旧軍港都市転換法」の適用を受けている都市(横須賀/呉/佐世保/舞鶴)の都市計画史です。

 

ちょうど今、『YOKOSUKAビジョン2030【案】』のパブリックコメント期間中(2021.7.16~8.10) https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/1210/cof/378/index.html

かつての「基本構想-基本計画-実施計画」という3層構造の、現状分析をもとに将来の施策を組み立てる計画手法が先行き不透明な時代に合っていないということで、このビジョンも「バックキャスティング」により案が練られています。縁あって、ビジョンの策定にかかわっています。このビジョンについて、

「これは、市の行財政運営の基礎としての役割、さらに、市民をはじめ横須賀に関わるすべての人のまちづくり活動の指針の役割があります。」

と、一般的な説明がなされたあと、

「また、旧軍港都市転換法に基づく旧軍港転換計画としての役割を持っています。」

と書かれているのが(呉/佐世保/舞鶴がどうなっているかは見てみないとわからないが)他にはない特徴です。

市の未来像は、「変化を力に進むまち。横須賀市」。

 

『<軍港都市>横須賀』が2021年8月1日に発行されるというのはたまたまですが、こうして「過去の歴史」と「少し未来からのバックキャスティング」にはさまれた「今」の私はサンドイッチ状態で、いろいろ思うところ大です。けれどもこのサンドイッチ状態は、「変化を力に進むまち」の「力」を最も考えやすい状態でもある。パブコメを踏まえて『YOKOSUKAビジョン2030』が最終案となる前にこの書にめぐり会えたことに感謝したいと思います。

 

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『東京復興ならず 文化首都構想の挫折と戦後日本』

基本理念無きまま(いろいろ言ったが「これ」というものは無い)昨日開幕した東京オリンピック。「下町の再生」を掲げ最後までやり切ったロンドンオリンピックを思い出します。(⇒関連記事)

本書『東京復興ならず』(吉見俊哉著、中公新書2649。2021.6.25刊)はそうしたムードに追い打ちをかけるようなタイトルですが、ここでは、この本の内容にもふれつつ、本ブログの「都市は進化する」の観点からオリンピック後の東京・首都圏などを少し予感します。

 

まず、Ⅰ章Ⅱ章が東京の戦災復興。戦争にかわって「文化国家」を建設しようとした日本ですが、この<文化>という言葉の深い意味のため、明確なビションとならなかった。「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法25条の当初の英文案なども紹介されていて、Ⅰ章自体がおもしろいです。この「文化」をどうとらえるかという議論は今日まで続く難しい話です。Ⅱ章は戦災復興都市計画、なかでも大学が中心となり描かれた「文教地区計画(構想)」が「挫折」していく話。「挫折」とされますが、それ以前の話のようにも感じます。(Ⅱ章も各大学がかかわった「文教地区計画(構想)」がていねいに読み込まれていて、読み物としてはおもしろい。)

第Ⅲ章が、1964年東京オリンピックを前後する東京大改造の話。理想主義の石川栄輝から機能主義の山田正男へと、理念・スタイルが180度変化する。けれども吉見はp169において、「石川と山田の対照は、この二人の都市計画家の都市に対する一貫した思想的違いというよりも、敗戦直後に目指された東京の未来と、経済成長が具体的な現実になり始めてから人々が向かっていった実際の東京の未来との間の対照として理解されるべきものなのである」とします。第Ⅲ章もそのものがおもしろい。

第Ⅳ章。ものすごくスピードが速まります。1970年代に再度「文化」重視に転換する一瞬があったけれども「高度情報化」「金融国際化」に振れてしまう。「文化」は広告化しフローとなる。(この間、いろいろあって)今回のオリンピック。

終章。東京復興ならず「東京は今も焼け野原のままなのだ」(p282)。なぜかというと、「第一に、この二度目の東京五輪は、東京の都市構造を再転換する契機にならなかったばかりか、(中略)経済効果でもマイナスの結果しか残さない」(p287)。「第二に、(中略)そもそもこの五輪の開催は、1964年のときと同様、「復興」よりも「復興の否認」につながる可能性のほうが高かった」(p288)。と独自の厳しい評価が下ります。

 

ところで、「東京の都市構造を再転換する契機にならなかった」との評価に関連して、NHKスペシャル『東京リボーン(1)~(6)』では東京の地下(第2回)、海底等(第3回)、首都高(第4回)、渋谷駅(第5回)の都市構造転換事業が「プロジェクトX」的に描かれていました。機能重視(技術偏重)というか、トレンド追従的な面が強く出ていましたが、「都市は進化する」視点からはとても興味深い内容でした(⇒関連記事)。特に、昨日朝に放映された第6回では新国立競技場の未来への理念のようなものも描かれていて(ストーリーの大半はいかに大屋根をピッタリ仕上げたかというプロジェクトX的内容)、「基本理念無きまま昨日開幕した」オリンピックの成果の一つを感じられた一瞬でした。

 

 

[関連記事(ロンドンオリンピック)]

・ロンドンイノベーション(2):オリンピックと下町再生

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20170407/1491536652

・ロンドンイノベーション(1):London Overground

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20170405/1491383216

PLANNING OLYMPIC LEGACIES

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20140703/1404386372

 

[関連記事(都市の進化)]

・東京の鉄道ネットワークはこうつくられた

 https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20150623/1435038662

 

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『Routledge Handbook of Urban Planning in Africa』

『Urban Planning in Sub-Saharan Africa』(2015)がサハラ以南のアフリカ諸国の近代都市計画史を体系的に描いていたとすると、同じ編者による、少し突っ込んで新しい芽をみようとしたアフリカ都市計画の最新動向です(ペーパーバック版は2021年発刊)。どう突っ込んだかについて編者の言葉をそのまま引用すると、

「in particular at the nature and capacity of local self-government and the role of urban governance in Africa, expanding the evidence and insights provided in recent research on urban planning in Africa」

この言葉の言外には、いわゆる「国」「体制」に頼ろうとしてもこれまでうまくいかなかった。むしろ、ローカルな場に存在している自律的な力に着目したい。そこにどのような「力」が見いだせるのか。また、たとえその「力」は今のところしっかりしたものとなっていないかもしれないけれども、アフリカの都市計画の今後はそこにかかっている。との編者の強い思いがあるように思います。

22章(第1章=序章、第一部の歴史編が第2~8章、第二部の現代編が第9~22章)にわたる各編で取り上げる地域は多様で切り口も幅広く、常に序章(第1章)に示されている編者の思いを確認する必要がありますが、いくつかの章はそのように確認しなくても、それ自体がグローバルな都市計画の理論・実践として新鮮な動向となっていて引き込まれます。

「the nature and capacity of local self-government and the role of urban governance」は多様で、「the evidence and insights」についても、これまで通りの“アフリカ都市計画”的ではないテーマ設定があえてなされている面があり、時々戸惑うこともあります。そんな時は本書のタイトルが「Handbook」であることを思い出して、「おもしろかった章がいくつかあればいいか」と考えるのがよいと思います。個人的には第6章、13章、15章、17章、18章でした。

どれもそれぞれおもしろいのですが、「アフリカの新しい都市化の兆候」について書かれた第15章は少し驚きです。よく出てくる大都市ではなく、地方の、国境近くの交易の結節点とか、企業立地(たとえばダイヤモンド採掘)により急速にのし上がってきた都市のいくつかが書かれています。

例として、モザンビークの北西にある「Tete」。Googleが2021年4月に公開した最新の「Timelapse」機能(地球の表面の写真1984-2020(37年分)が公開され連続的・自動的に見ることができる。途中で止めたり、見たい年を選んだり、速さを調整することもできる)を使った場合、最も都市・地域の変化がわかりやすい例です!

 

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再建された旧吉田茂邸 (大磯町)

「晴れた日には南に相模湾、西に富士山を臨む。そんな絶景の場所に旧吉田茂邸は立っています。」(旧吉田茂邸学芸員 久保庭萌「(随想)旧吉田茂邸の再建と公開」p44)

 

いつか行こうと思ってなかなか行けなかった旧吉田茂邸に、やっと先日行ってきました。2009年の火災で焼失後2017年に公開されるまで8年。1個人の邸宅の再建に民間からの寄付がこれだけ集まった理由は、そこに行ってみると自然に感じとることができます。「寄付」という行為の中にはそもそも、なんとかしてこの貴重な文化遺産を取り戻したい、自分もその一員となってそうしたい、という思いが込められていて、再建されたこの邸園を訪ねることは、既に自分の中にある再建後のイメージを持ちながら、できあがったものを恐る恐る確認する作業のように思います。

 

なかでも強い印象をもったのは、吉田茂が公の職から引退後に増築された新館の2階です。冒頭の「晴れた日には南に相模湾、西に富士山を臨む。そんな絶景の場所に旧吉田茂邸は立っています」という表現が、この邸宅を外側から客観的に説明するものだとすると、引退後に吉田が多くの時間を過ごしたと思われる新館2階の、中でも「金の間」(再建の際、金は使われていない)の雰囲気は、これまで見たことのない類のものです。なぜこのような雰囲気を再現することができたのか。冒頭の随筆から2点、特定します。

 

第一。茂の養父吉田健三は明治17年にここに土地を購入しますが、「大磯に土地を購入した時期はちょうど大磯が別荘地として発展を遂げようとしていた」時期にあたり「健三は大磯のなかでも特に眺望のよい土地を選び別荘を建てました。吉田邸はちょうど大磯丘陵の端に位置する小高い丘の上で、駅からも少し離れた閑静な場所にあります」(随想p44。なお、大磯駅の開業は明治20年)。そうです。「金の間」から見える小田原・富士箱根方面の眺めは、「ここ」にしかない絶品です。よく見てみると、本館からの眺めはそうでもないのですが、茂が政界からの引退時に建てた別館はスロープになっている廊下を少し北側に上がった地点にあり、かつ、「ちょうど大磯丘陵の端に位置する小高い丘の上」の西側の、「そこ」にしかとれない窓越しに見える眺めです。その丘は高すぎてはダメで、「金の間」からは中・遠景が雄大に眼前にひろがります。

第二。その「金の間」の窓などの設計。「完成した建物は、迎賓館にふさわしい豪奢で洗練された造りでした。二階の応接間として造られた「金の間」は眺望もよく、高い天井と大判ガラスを使用した窓が解放感を生み出しています」(随想p47)。現在、この部屋の調度品は除かれ、小さなイスが3つ並べてあるだけですが、可能であればここで賓客と語り合ったときのソファー(?)などを再現して、さまざまな季節・時間帯の眺めを味わいながら茂が過ごした「本当の歴史」に迫ってみたいものです。

 

なお、これまで、「昭和期の首相吉田茂が別荘をつくろうとした際、大磯駅寄りの一等地は伊藤博文などの明治の元勲たちの別荘で押さえられていて、駅から離れた端っこのほうに土地を求めた」のではないかと思っていましたが、明治の元勲たちが別荘を建てるのは明治30年前後になってからなので、最初に大磯に土地を求めた実業家の養父健三が最も優れた土地に目をつけたというのが歴史の順番だったようです。

 

 

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昼夜間人口比と新型コロナ(その2)

東京でまた「緊急事態宣言」です。昨夜のWBS(テレビ東京)では、東京都心部の空室率がさらに高くなる中で、「オフィス」の位置づけを変え平面計画を一部刷新した2つの企業の事例が紹介されていました。

「外へと向かう「新近郊」の動向に興味が引かれる一方、新型コロナ下で都心部に住居を移す動きも旺盛と言われ、アフターコロナに向けて「都市構造」や各場所での「土地・建物利用構成」が大きく変化しそうな予感がします」とした2020.12.18の(その1)では、東京港区を例に、昼夜間人口比が徐々に小さくなっていると、2015年までの動きを以下のようにあげていました。

 

         昼間人口   夜間人口   昼/夜比 

1940   396552     336312    1.179

1955   380542     251884    1.510

1965   536379     235333    2.279

1975   674821     209492    3.221

少しあけて

1995   849786     144233    5.892

2005   908940     185732    4.894

2015   940785     243283    3.867

 

2020年のデータも得られるようになり、この6月に改訂・公表された『港区低炭素まちづくり計画』(⇒資料)の中に将来人口推計も掲載されているため、「テレワーク」の要素も入れながらラフに「これから」の都市構造の変化を考えてみます。

 2020   973607     260284    3.741

 

まだまだ高いです。

けれども「973607」のうちテレワークで実際にはオフィスに来ていない割合を勘案しこの数字が20%減るとすると、「778886」。

2020(テレワーク勘案)   778886     260284    2.992

2倍台になりました。バブルで夜間人口が追い出されてしまった1990年代と比較すると隔世の感があります。昨夜放送のWBSで紹介された1事例目は(オフィスは多摩地域でしたが)ダ~~ッと並んでいたオフィス机の一部を撤去して共同作業型のゆったりしたスペースを多様に確保。2事例目の渋谷のオフィスは4000冊の本棚に囲まれた「考えられる」オフィスに。「数字が20%減る」かどうかはさておき、ハイブリッドな働き方が定着・拡大していくと、「オフィスに勤務している人の人数」の数え方も変えないと現実とズレていきます。

『港区低炭素まちづくり計画』に出ていた2025、2030年の夜間人口(予測)の数字を使い、頭打ちになってきた昼間人口は「778886」のままとすると、

2025(テレワーク勘案)   778886     278846    2.793

2030(テレワーク勘案)   778886     309229    2.519

 

だいぶ下がってきました。「毎日長距離通勤」者はだいぶ減り、新しいオフィスではよりクリエイティブに価値が生まれ、ハイブリッドな勤務形態によってワーク/ライフバランスが多様になり、郊外も変わる。

これまで「夜間人口」は無チェックで議論してきましたが、2020年の「260284」、2025年の「278846」、2030年の「309229」という数字の多くはビジネスも同時にやっていたりテレワークで週の何日かは家で仕事をしている人たちです。そう考えると、これまで「人」や「世帯」をベースに考えていた「ワーク/ライフバランス」という概念は都市の土地利用にもあてはめて考えたり分析したりカウントする必要がある。

 

最初からかなり長めに宣言された「緊急事態」。都市の進化をまた一歩促すことになりそうです。

 

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[資料] 『港区低炭素まちづくり計画』(2021.6改訂・公表)

 

南アルプストンネル

リニア新幹線の「難工事」とされる「南アルプストンネル(25キロメートル)」について、これまでその工事の実際について理解していませんでした。けれどもこのところ、政治的要因なども加わって「難工事」の度合いが増し、さらに最近では地震学者による『リニア新幹線と南海トラフ巨大地震』(集英社新書、2021.6.24刊)のようなこの事業への警鐘を鳴らすまとまった本も出て、さらには新型コロナ後の旅客需要への不透明感も加わって、「不確定要因」が積み重なっているように思います。

それでも、少なくとも「南アルプストンネル」とはどういうものなのか、トンネル工事に伴う「水問題」とはどういうものかくらいは知らないといけないと反省し、3県の工事状況の概要を把握したうえで、特に静岡県部分の工事の実際をみようと、国土地理院の2万5000分の1の地図「間ノ岳」「塩見岳」「赤石岳」3枚を購入して、そこに「南アルプストンネル」の線や、工事に入るための「非常口」や、水を抜くための「導水路トンネル」の場所を(だいたいのところで)地図上に書き込み、工事の実際や、現在問題となっている大井川の水について具体的にイメージできるようになってきました。

世の中に出ている工事概要はどれもポンチ絵風でどうもピンとこないのですが、こうやって具体的に2万5000分の1の地図に線を引いて(2次元)、標高差を見て(3次元)、工事箇所と大井川の落差などを考えてみると、どのような「難工事」であるかがヒシヒシと伝わってきます。言葉だけで最大限表現してみると、、、(複雑な部分は省略)

 

山梨側からゆるりゆるりとトンネルを登り静岡県内の長野県境寄りの1215メートルのピーク地点を超えると下り始めて長野県側の出口に到達します。25キロのトンネルを時速500キロで走るとしてこの間約3分。南アルプスはその上にそびえ立っているので、特に真ん中の静岡県部分を掘るにはどこかの地点からアルプス内部の「トンネルになるべき部分」にめがけて工事用トンネル(=非常口)を掘ることになる。非常口を掘り始める箇所は、トンネル工事で出る土砂の運び出しや作業員・作業用機材等の出入りを考えると道路に接続していなければならないので、南アルプスの谷沿いのどこかに設けることになる。2本のうち1本は、標高1340メートルの大井川沿いの「千石非常口」から堀りはじめ、標高1080メートルの「トンネルになるべき部分」までの3070メートル(標高差260メートル。1キロ当たり85メートル下がる)を掘り下げる。ようやく「トンネルになるべき部分」に到達したら今度は「トンネル」そのものを掘っていく。もう1本はいくらか上流に上った、大井川支流西俣川沿いの「西俣非常口」標高1535メートルから同じように「トンネルになるべき部分」まで掘っていき(延長3490メートル)、標高1210メートルのポイントまで到達したら「トンネル」そのものを掘っていく(標高差325メートル。1キロ当たり93メートル下がる)。さらにトンネル本体の工事で出てくる大量の地下水を排水するための「導水路」を、トンネルの標高1135メートル地点から大井川に向かって掘っていく。「大井川に向かって」といってもトンネル本体の方がかなり低い位置にあるので、大井川の下流側で自然に合流できる地点まで長いトンネルを掘る。実際には、トンネルの標高1135メートル地点から大井川下流側の標高1120メートル地点(椹島(さわらしま))までの11400メートルの区間に、傾斜が緩く長~い導水路トンネルを掘ることになっている(実際には大井川側からトンネルに向けて掘っていくものと思われる)。

 

話は100年前にさかのぼりますが、東海道本線丹那トンネル工事(7800メートル)は1918年に計画され1925年の完成をめざしていましたが、相次ぐ難工事や災害のため工事期間は大幅に伸び、完成したのは9年遅れの1934年のことでした。技術力は格段に進歩した100年後とはいえ、途中、活断層帯もあり突発的な出水なども予想される中での「南アルプストンネル」工事はこうして地図上でみただけでもたいへんな工事です。

今、「水問題」などのためにこれら諸工事がストップしている。

 

いつ、どのような突破口から「次」のシナリオが見えてくるのか、本日の時点ではまったく見当もつきません。テクニカルに各論を詰めて突破できるのか、政治的決着か、代替案探しになるのか、完成時期の大幅な延長か。事実上の凍結になってしまうのか。

 

以上のストーリーには最も北側をカバーする「間ノ岳」の25000分の1地図は直接関係ありません。けれども「大井川」は静岡市最北端の「間ノ岳」までさかのぼり、そこで終わっています。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」。

 

 

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