ローマ の検索結果:

「ミヤケ(屯倉)」の設置戦略と都市の発生の関係

…ミヤケ(屯倉)」は、ローマ帝国拡大過程でつくられた街道と植民市に近い関係にあるかもしれない。それら植民市は現在の多くのヨーロッパ主要都市の原型になったということを考えると、日本の「ミヤケ」はもしかするとその後の日本の各地の都市発生と関係しているかもしれない(「その後」は途絶えたとしても「その時」の国土経営戦略としては重要)、との興味から、古代の主要地域だった吉備国がヤマト王権に組み込まれる過程を描いた『吉備の古代史 王国の盛衰』(NHK Books 648,1992)からミヤ…

「尾根を下る」: 青山上水の話 (都市は進化する195)

…市が大きくなるとき、ローマ時代から既に遠方の水源地より「水道」を引いてきて水を供給してきましたが、理想的には、水源地から尾根沿いにゆっくりゆっくり標高を下りつつ、都市部にさしかかるとき、分岐していく枝の尾根に沿って上水を分岐させる。なるべく落差は微小にとどめて都市中心部までもっていく。いずれ尾根道はおしまいとなり下町へと推移するのであとは勢いで(?)水を流していく。 尾根から下ってきた水を受け取り使用したあと、そのまま流すと谷沿いの小川から川へ、海へと自然流下し「水は海に向か…

平安宮

…魅力なのではないか。 2024.1.7から紫式部の生涯を描いた『光る君へ』(NHK大河ドラマ)がスタートします。自分なりに平安京の記録や記憶をたどり京都という都市をじっくり味わってみたいと思います。 [関連記事] ・ローマの底力 : 都市文明と都市計画(1) ローマとはどういう都市か 🔖検索 「平安京」 【In evolution】日本の都市と都市計画本記事をリストに追加しました。http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757

都市探訪176 ピンチョ

ピンチョ・ピンチョの丘からヴァチカン方向を眺める (ローマ2018) 🔖検索 「丘」

「世界の都市と都市計画」の近代までを分節しました

… 古代ギリシャ都市とローマ帝国A-4 ポストローマ帝国の都市A-5 古代末期の諸帝国とその影響 ■B.中世都市の創発的進化B-1 都市の創発的進化とはどのようなものかB-2 ヴェネツィアの勃興から「創発」を深く探るB-3 交易を通した中世都市の進化B-4 世界の中心都市はどのように変遷したか ■C.近代の芽生えと世界の一体化の象徴としての都市C-1 ヴェネツィアとローマに都市イノベーションを見るC-2 ルネサンスから空間の科学的思考へC-3 近代世界都市システムの展開C-4 …

「古代都市文明の生成と伝播」(世界の都市と都市計画)を5つのパートに分けました

… 古代ギリシャ都市とローマ帝国A-4 ポストローマ帝国の都市A-5 古代末期の諸帝国とその影響 同じ「古代」でも、大陸の端にある日本では都市自体の出現が紀元3世紀頃とおそく、上記目次では最後の「A-5 古代末期の諸帝国とその影響」のところでようやく「諸帝国」のアジア代表の(隋・)唐の影響で藤原京-平城京-平安京が出てくる。「出てくる」といっても実際にどう出てきたかは「世界」のほうではなく「日本」のほうでの扱いとなります。さらに現時点での想定では、唐が907年に滅亡したあとは外…

都市探訪140 聖堂の都

聖堂の都・カピトリーノ美術館の屋上テラスより(ローマ2018) 🔖検索 「ローマ 聖堂」

『TACTICAL URBANISM』

…いる。暫定都市計画。ローマ時代の「castra」からはじまるその話は、生活インフラだけ整備しておきあとは個々の成長に任せる都市計画の原点である。「ボンネルフ」の経緯と法制化。災害からの復興。まずは生きるための復旧からはじまり次第に形が整ってくる。この第2章だけでも学習教材になりそうです。 第二。やはり第4章の5つの事例。この本の約4割ほどの分量です。この本の著者が、「これぞタクティカルアーバニズムの原点」として精選したものなのでしょう。「5つの事例」というより、「5種類のタク…

Index Page (ブログ内テーマ検索)  [2024.3.24更新]

…」で ■主要都市* ローマヴェネツィア (ベネチア)パリロンドンマンチェスターレッチワースアジスアベバドバイ北京横浜鎌倉バンクーバーポートランドニューヨークデトロイト ■計画内容 ビジョンマスタープランゾーニング近隣計画地区計画再開発区画整理計画許可エリアマネジメントニュータウン世界遺産 品川フィールド (品川駅周辺の大規模都市再生事業) ■災害 復興計画関東大震災阪神・淡路大震災東日本大震災南海トラフ地震首都直下地震新型コロナ ■人物 ハワードジェイコブズ *「主要都市」に…

『高地文明』

…市をつくれるか(古代ローマだって遠くから水を引いてきた)」、などで、そういう意味で『高地文明』にはとても興味が湧きます。 この本で「四大」としているのはアンデス(インカ)、メキシコ(アステカ、他)、チベット、エチオピア。 チベットを除くと、緯度の低いこれら地域の高地は、1)気候的に過ごしやすく人間にも動植物にも疾病等が少ない、2)外敵の侵入から守りやすい、との共通項に加え、高地ならどこでもよいというわけではなく、3)必要な木材資源等に恵まれている、4)水資源が得られる、5)比…

社会実験「シブヤホンマチPLACEMAKING」が開催されます(10月21~23日)

…昨日も学部授業で古代ローマの水道の話をしたところなので“世界中にある”と言ってもよいかと思いますが、渋谷本町の「水道道路」もなかなかチャーミングで、「防災まちづくり」に取り組むうえでも象徴的な場所です。そこで(そこを)プレースメイキングするということは、単に「防災性能を向上する」ことにとどまらず、以下の3つの効果が期待されます(グランドデザインp33より) ・身近な場所での楽しみが増え、まちに住むことに誇りを持てる。 ・もしものときに身近な場所が頼りになる。 ・多様な人が沿道…

『西暦1000年  グローバリゼーションの誕生』

…のは、「すべての道はローマに通じる」ならぬ「すべての道はアンコールワットに通じる」ことが近年の研究成果により(まだ仮説的な部分もありますが)語られていて、『西暦1000年 グローバリゼーションの誕生』×NHKスペシャルによってはじめて、この頃の東南アジアの安定的な都市・地域の姿がわかってきました。 最後に。この『西暦1000年 グローバリゼーションの誕生』にもう一つ副題をつけるなら、「西暦1000年 やがてやってくる大航海時代までの前史」という感じでしょうか。アンコールワット…

デジタルサントリーホール

…る催し、たとえば古代ローマ遺跡でのオペラなどもライブ視聴できるのかもしれない、、、 「いや、そこまで出かけてこそ価値があるのだ」という自分の心の中の言葉と、「いやいや、いいじゃないですか。それが「都市は進化する」というものなんです」という気持ちがぶつかり合い、やや後者がリードしているのが今朝の状況です。結論を出す前に、実際にいくつか体験してみるのが先ですね。 [後日談 : 会場は無観客となりましたが、オンラインでのライブは無事開催されました!] 本記事を「ポスト・コロナ社会の…

『世界経済史概説 紀元1年-2030年』

…ということは、、、 ローマ時代から現代までの世界のありとあらゆる出来事が「GDP」(と「人口」)で(とりあえず)理解できそうだということで、これが本書のすごい理由です。そしてこのすごさに到達できたのはごく最近のことで、たとえば前書に比べるとローマ時代を加えて古代部分が厚くなったとか、推計方法の精度が次第に上がっているといった研究史についても詳しく書かれています。475頁(人口)と478頁(GDP)のたった2頁でもって、世界のありとあらゆる出来事に一定の説明を加えることができそ…

『中世都市 社会経済史的試論』

…き付けられました。西ローマ帝国滅亡以後、中世都市が花開くまでの「間」のヨーロッパ「都市」の進化過程の記述が魅力的です。「都市イノベーション・next」的というより「都市イノベーション・world」的視点でいくつか書き留めます。 第一。地中海での交易は西ローマ帝国滅亡後も引き継がれてしばらくの間それなりに維持されていたものの、地中海がイスラム勢力により取り仕切られるようになると海港都市も衰退。そうして商業の出入口が衰退すると後背地でできるのはせいぜい自分のところで食っていくため…

400年の都市人口

『ローマ人の物語』文庫版も第40巻まで読み進み(全43巻)、コンスタンティノポリスの建設(330年から)も進んで、キリスト教がかなり強くなってきました。ローマの有力者たちは次々にコンスタンティノポリスに移り住み、やがて西ローマ帝国は「滅亡」します。 そこで、「紀元前後の都市人口」「800年の都市人口」の間のこの時期の都市人口をみておくことにしました。いつものチャンドラーの推定人口の「361年」というのを使います。 コンスタンティノポリス 300000 クテシフォン 25000…

ジュンディー・シャープール(グンデシャプール)

…廃墟)。この都市を『ローマ人の物語』文庫本第33巻ではグンデシャプールと呼び、実はこの都市は、ローマ皇帝ヴァレリアヌスがペルシャ王シャプールに生きたままつかまり、連行されたローマ人により建設されたものであると記されていました。 ちょうど先月8月20日に『ペルシア帝国』(講談社現代新書2502)が出ていて、当時のササン朝ペルシャはこのあたりに多くの都市を建設していたことがわかります。さらにジュンディー・シャープールには、ビザンツ帝国を追われた学者たちが吸い寄せられ、おそらく当時…

『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』

…スタンティノープルにローマ帝国の首都を「遷都した」との理解は間違っていること(山川出版の世界史(2018発行)には「ビザンティウムにあらたな首都を建設して、コンスタンティノープルと改称し」となっていて、この教科書では「遷都」とまでは言っていない)、「西ローマ帝国は476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルに滅ぼされた」というのも誤った認識であることなどを、「なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか」との視点から描き出した概説書です。 NHKBooks1265、2020.8.…

アメリカは一日にして成らず(アメリカの開拓・都市計画500年史)

…いのだから」と、 『ローマは一日にして成らず』で指摘されたように、この場所は定住地には不向きで1699年に近くのウイリアムズバーグに拠点を移動。この間、ヨーロッパではホッブズが国家建設理論の基礎を築き、1776年の独立を思想面で支えます(⇒関連記事1)。1607年から数えると独立までに169年。 このあとのアメリカ開拓史は『勇気ある決断』(⇒関連記事2)で。アメリカをつくった「十大事業」(エリー運河、大陸横断鉄道、ホームステッド法など)が語られます。その際、具体的にどうやって…

『(NHKスペシャル)地下に眠る皇帝の野望』×『(映画)キングダム』×『(新書)始皇帝 中華統一の思想』

…4集英社新書。 西でローマ帝国が崩壊したあとも、中国では秦の始皇帝がシステムとして確立した大国の近代的運営方法が基本的には今日まで受け継がれている。aは、近年の始皇帝陵発掘をめぐる驚くべき発見(まだ仮説の段階だが)を、bは始皇帝の中華統一のはじまりの段階を(漫画連載ではかなり進んでいるらしい)、cは統一の極意をbの漫画に描かれたシーンを引用しつつ扱ったもの。 aの驚きに絞ると、350メートル四方で高さ53メートルの始皇帝陵がいわゆる皇帝の墓だと思っていたら、実は、7.5キロ四…

『ローマは一日にして成らず』

…」があるはず。では、ローマの最初はどうだったか。なぜ「そこ」にローマができたのか。なぜローマは「成った」のか。どのように成ったのか? 本書は、大作『ローマ人の物語』全15巻のうち第1巻にあたる部分で、文庫本では43冊の1,2冊目。以後、全43巻の1,2巻目と呼ぶことにします。 「工学部の都市工学科に学ぶ人ならば、何よりもまず先に、哲学や歴史などの人間学を学んでほしいものである。どこに都市を建設するかで、住民の将来を決めるかもしれないのだから。」(1巻p39-40。筆者は哲学科…

『ローマ亡き後の地中海世界』+『十字軍物語』+『コンスタンティノープルの陥落』

476年に西ローマ帝国が崩壊したあとの、地中海を中心とする当時のヨーロッパ/オリエント世界の、キリスト教/イスラム教勢力の攻防をめぐる歴史ストーリー。1453年にコンスタンティノープルが陥落するまでの約1000年が描かれます。塩野七生著。いずれも文庫本で読みました。きっかけとなったのは、本年1月、2月に文庫化された『十字軍物語』。 必ずしも都市だけを扱ったわけではありませんが、イスラム勢力圏の拡大とイスラム都市の生成、迎え撃つキリスト教世界。なかでもイタリア海洋都市国家間の確…

アイ・ハヌム : もう1つのアレクサンドリア

…て、古代ギリシャからローマに至る間の、西と東をつなぐこの都市の意味を、やや要約風に書き留めてみます。ちょうど2018.12.11の記事(⇒関連記事1)にあるように、世界の都市空間史にアジア都市をどの段階で登場させるか考えているところなので、「アイ・ハヌム」の意味を考えることは、「西か東か」ではなく、「西と東を結ぶ都市」の意義を考えることになりそうです。第一。現実的な話から。1960年代に発掘がはじまり多くの発掘品や記録が残されたあと1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻。戦争…

紀元前600年の世界の都市人口

…しても古代ギリシャ・ローマからヨーロッパ都市への単線的な流れだけになってしまう。 いくつかシカケを考えたのですが、どうしてもアジアはメソポタミアとの距離的隔たりが大きいため、「どこかで登場させたいけれどもどこでどうやって登場するか」を考えないといけない。ということで、2018.2.22の記事で「最後は「紀元前後」」としていた都市人口話をさらにさかのぼって、アジア都市が登場してくる目安を探すことにしました。あくまで目安なのでこれだけが決定的証拠というわけではありませんが、(とり…

宿泊税物語

…高額)徴収されます。ローマで2011年1月1日に条例が施行された(年間100億円の徴税を見込む)際の話題が的を得ていそうなので(岡田直子さんの当時のブログ。全国紙La Repubblicaからの引用による)、少し紹介(引用)させていただきます。(激しいのはやめにして、、、) 批判的なものとしては、 ・自分たちの財政難を、観光客へ物乞いしてまかなうのか?ローマ市の経営能力欠如を、観光客にカバーさせるのか? ・ローマはイタリアの首都である。つまりこの国の貧困の度合いを表している。…

カンピドリオの丘にあるカピトリーノ美術館の上階のテラスから見える風景(ローマの底力:都市文明と都市計画(3))

…(設定?)したのか。ローマには7つの丘があるとはいえ、このような高さから、このようなアングルおよび視界でこうした風景を眺められるとは。このテラスは増築されて張り出した美術館の屋上でもあるので、その増築をしたときに、元の美術館と接続させつつテラスをつくることによって、美術館内部だけでなく美術品ともいえるローマの風景をもゆったりと眺められるように考えたのでしょうか。 この階はカフェとなっていて、今ホームページを見てみると夜にはパーティーなども開きながらライトアップされた風景を味わ…

『時のかたち』

…状況を反映していた。ローマ帝国の建築も、伸長する植民地建設から同じように利益を得ていた」(p.216-216)。後者について、「その変化が最も現れているのは、よく知られているように、中世ヨーロッパ建築の中心が地方の僧院から市中の大聖堂、そして都市全体へと移り変わっていったことである」(p.217)。それら「シリーズ」が群生しているさまが、『時のかたち』だとすると、「都市は時のかたちである」「ある時期に卓越してなされた都市計画は時のかたちとなる」、などどといえなくもありません。

『古代ギリシャ 地中海への展開』

“古代ギリシャ・ローマ”とはいったい何か。それはイタリアで起こったルネサンス期に意識化され理想として甦らせようとしたヨーロッパ的歴史観であり、本書が対象とするギリシャに限るならば、1821年にイギリス・フランス・ロシアの保護下に独立が認められた近代ギリシャを、「古代ギリシャ」を引き継ぐ場所として甦らせようとした独特な概念および実態である。その「実態」を明らかにすべく、本格的な調査は1837年にアテネ考古学協会が設立されたのを皮切りに欧米主要各国が研究所を設立。歴史は前に進むの…

『十六世紀文化革命』

…いています。前記事でローマのルネサンスの到来を告げたあとの、たとえばオースマンによるパリの大改造がはじまる1850年代までには350年もあり、その間の流れを「バロックの都市計画」の生成と体系化として解釈しようとしても、かなり抜けた感じがします。日本のこの時代はまさに都市が勃興してやがてそれらが「城下町」という独特な形態を伴いながら新田開発なども精力的に行われて人口も増加しやがて幕末期に入っていく。その間、1532年に鉄砲を持って種子島に到来したキリシタンは長崎の出島などに押し…

ローマの底力:都市文明と都市計画(2) ローマの遺伝子

…いう存在を材料に、「ローマの底力」を「ローマの遺伝子」という視点から考えます。 フィレンツェ。カエサルの時代(前100‐前44)に交通の要衝であるこの地が選定されローマの植民市として都市計画されました。その植民市時代の古代フィレンツェは驚くほどほぼそのままに現代まで引き継がれています。「ローマ時代に建設されたフィレンツェでは、再生するまでもなく、市街地のまさにど真ん中に、ローマ時代のままの区画が残っていた」(同書序のp4)。これを同書では「第一層」と呼び、続く中世のフィレンツ…